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執筆者の写真じょ〜じ

イエスの風 No.14

 先週は、火曜日から土曜日にかけて、松原湖に出かけ、大学生の皆さんと共に過ごして来ました。松原湖は、18年前に初めて訪ねて以来、私にとって魂の故郷のような場所です。神にある自分を確かめることが出来る場所なのです。そこで、初めて「じょ〜じ」と名乗り、それ以来「じょ〜じ」と呼ばれるようになりました。ここでは、いつも新しい発見があります。特に神の恵みについて見出すことが出来るのです。大学生の皆さんと共に過ごし、彼らの心に触れ、彼らの優しさや愛を発見しました。彼らの力強さ、神に与えられた豊かな賜物を知らされました。複雑で、痛みの多い今に生きる彼らの中に、豊かな感性が育っていることを感じました。そのような出会いに心を震わせました。そして、その感動は今も心の中に響きをもって残っています。その響きを想い起こすと、不思議に心が熱くなり、涙が流れます。少々、心にロスを感じているのです。秋の訪れなのでしょうか…。

主イエスのいのちが、あなたの内に溢れますように。主がこう言われます。「あなたは、わたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。安心して行きなさい。」

マタイの福音書13章24〜43節「麦が天の父の御国で太陽のように輝く」

 私たちの心には、何事も白黒ハッキリさせたいと言う願望がある。曖昧さ、中途半端さを上手く受け止められない。1+1=2と言うような答えの明解さを求める。けれど、そのような感覚で人生を捉え、日々の歩みの中に生まれて来る疑問、悩みに向き合おうとすると、かなり苦労することに気付きます。私たちは、自分自身をそんな簡単に見極めたり、分別など出来ないのです…。心の中を覗けば、自分がかなり複雑だと言うことに気付きます。様々な思いが入り混じっていて、一つではないのです。この人を愛したいと願う心と、同じ人が憎らしいと思う心がある…。善に対する飢え渇きと、悪への憧れ…、そのような思いが混在し、自分は一体どう言う人間なのだろうかと戸惑うのです。

 イエス様のたとえ話は、私たちのそんな現実、在るがままの姿に光を当ててくれるように思う。麦と毒麦の話…聴けば、聴くほど心が騒いで来ます…。イエス様は、一体何をおっしゃりたかったのだろう。イエス様は、どんな眼差しでお話しになったのだろう。その心の内にあった思いを知りたいと言う渇きが起こって来ます。

 このたとえ話は、私の心を揺さぶります。「私は、どちらだろうか…。麦か?毒麦か?」願わくば麦でありたい…、けれど自信をもって麦とは言えない。けれど、毒麦だと言うことも出来ない…、それは恐ろしいことです…。

 イエス様は、どうしてこんなことを話されたのだろう…。でも、言いたいことが分からないわけではない…。日々を生きていると、スッキリしないことに出会います。理想と現実のギャップに悩まされるのです。この世界が善いものだと信じたいし、そうなるように努力をするけれど、そうならない…、それを邪魔し、壊そうとする者がいるように思うのです。平和を壊す者がいる…。どうしてこんなことになるのだろうかと思い、悩むのです。私たちは、一生懸命に、この世界が善いものになるようにと願い、主と共に種を蒔くのです。けれど、その種が育ち、芽を出すと、驚くことに毒麦が混ざっている…。変なものが混じって出て来るのです。理想とは違うことになっている…。どうして、これほどに平和を願い、互いに愛し合うことを願い、共に幸せになることを願い努力するのに、上手く行かないのだろう…。誰が悪いのだろうか、そんなふうに悩むのです。そして、こう言うのです。「では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。」(28)悪いと思われる原因、疑わしい者を見つけ出し、取り除こうと乗り出すのです。そう…、私たちは信じています。悪い者を排除すれば必ず善くなると…。善は急げ、排除するのは、早ければ、早いほど良いと考えます。

 けれど、イエス様はこうおっしゃる。「いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。」(29、30)イエス様は、悪い奴は即刻排除しようといきり立つ僕たちに言うのです。「時が来るまで育つままにしておきなさい。」イエス様は、僕たちに毒麦を抜くことをお許しになりませんでした…。これには驚きです。悪い者は、即刻排除しなければいけないのではないでしょうか。イエス様は、育つままにしておきなさいと言うのです。時が来るのを待つようにおっしゃる…。そして、私たち人間に毒麦を抜くことをお許しにならない…。

 イエス様は、ご存知です。私たち人間が頑張ってはいけないと言うことを…。私たちが頑張って正義を主張し、貫こうとする時、善いものさえも壊し、失ってしまう…。私たちが、悪をさばき続け、取り除こうとすれば、遂には私たち自身をも取り除かなければならなくなってしまう。これは、私たちの哀しい現実です。私たちは、まともにさばくことが出来ない。公正をはかることが出来ないのです。イエス様は、そんな私たちの限界をご存知です。そして言われる。「神の国の力は偉大だ。全てを、わたしに信頼して任せなさい。」(31~33参照)イエス様は、悪をさばかれる。神の国を完成なさる時に、全ての悪がさばかれ、滅ぼされる…。けれど、そのさばきは、私たち人間が想い描くようなものとは違う…。人は、性急に、容赦なく、さばく。簡単に断罪してしまう…。しかし、イエス様は、私たちの悪のために限りない忍耐と憐れみを示し、遂には自らのいのちをささげ、赦しときよめ、癒される道を備えて下さった。イエス様は、最期の最期まで待たれる。私たちが癒され、変えられるのを待っていて下さる。麦よりも、毒麦のような私たちを愛し、変えて下さる。私たちは、神のさばきを信じるなら、それ以上にイエス様の赦し、きよめ、癒やしを信じなければならない。

 イエス様は、あなたが麦か毒麦かで悩ませようとしておられるのではない。イエス様は、あなたを麦だと見ている。そして、こうおっしゃる。「そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。」(43)イエス様の願いは、あなたを「天の父の御国で太陽のように輝」かせることです。イエス様は、麦の収穫を楽しみにしておられる。あなたが、そして全ての人が、ご自身の赦しときよめの中で、癒され、変えられることを忍耐し、待ち望んでおられる。              

 だから、私たちは、自分に対しても、人に対しても性急な判断をし、さばいたり、罪に定めたりしないようにしたい。イエス様の公正と憐れみ、忍耐と赦しの愛に信頼して生きて行きたいのです。耳のある者は聞きなさい。

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