京都の宇治(実家)に滞在して一週間が経ちました。数日前、近所を散歩しました。小学生時代から20代前半まで居た街、いつも歩いていた道、何だかあの頃と随分印象が違うと感じました。もちろん変わった部分が所々ありましたが、何よりも変わったのは、それを見ている自分自身ではないかと気付かされ、はっとしました。人は、知らず知らずの内に変えられて行くのですね…。願わくば、変えられることを恐れるのではなく、それを受け入れ、愉しむことが出来ますように…。「見よ。わたしは新しいことをする。」(イザヤ43:19)今週も、主が共におられます。そして、新しい日を創造して下さいます。私たちを新しくして下さいます。
主イエスのいのちが、あなたの内に溢れますように。主がこう言われます。「あなたは、わたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。安心して行きなさい。」
マタイの福音書21章18〜32節「信じて祈り求めるなら…」
神を信じると言うことは、神に向かって祈ること。神に祈ると言うことは、神に身を寄せ、委ねること…。そして、それは、神の国に入り、それを経験することです。あなたが神に向かって祈る時、あなたは神の懐に身を任せ、神の御腕の中に居る。神の御腕の中、それが神の国…。 神の国に生きることは、ダイナミックで、冒険に満ちた旅です。次に何が起こるか分からない…、人知を越えて偉大な神の存在を知り、その御業を見せられる経験…。目の前で信じられないようなことが起こるのです。 弟子たちは、驚くような出来事を目の当たりにした…。イエス様が、実がなっていないイチジクの木をたちまちに枯らしてしまわれたのです。イエス様が、「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」(19)と言われた途端に枯れてしまった…。弟子たちが驚いて、「どうして、こうすぐにイチジクの木が枯れたのでしょうか。」(20)と尋ねると、イエス様は答えられたのです。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、イチジクの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」(21、22) イチジクの木を枯らしてしまうイエス様…、ちょっと複雑な気持ちになります。イチジクの木が可哀想…と言う人は少なからずいます。イエス様は随分と我が儘、勝手気まま…、自由だとなぁ思う…。自分の意にそぐわない者を切り捨てると言うか、滅ぼしてしまわれるのだろうか…と思わせてしまいます。イエス様は、一体何を言いたいのだろう…。 イエス様が神殿の中で教え始められた時、イエス様の勝手で自由な振る舞いに、祭司長、民の長老たち、時の指導者たちが疑問を投げかけます。「何の権威によって…」(23)けれど、イエス様は自由に身をかわし、逆に彼らに疑問を投げかけられる (24~32)。イエス様は、彼らに問われた「どうして信じないのか」と。指導者たちは信じなかった…。救い主の到来を告げ、神の前に悔い改め、心を変え、生き方を変えるように語ったバプテスマのヨハネ。そして、今目の前にいるイエス様を…。何故…、何が彼らを信じないようにしていたのか…。「何の権威によって…」プライドだろうか。 人は、権威を持つ、権力、力を持つこと、プライド…、それに憧れ、握りしめ、手放すことが出来ない。今までやって来た、自分のやり方がある。自分で何とかして来たのです。だから今更、自分の無力さを受け入れ、手を上げ、助けを仰ぐことは出来ない…。恐い…。自分を護りたい。自分が駄目だ…なんて思いたくないのです。 自分以外の誰かを頼って生きる、寄りかかって生きる、導かれて生きることは、不安との闘いです。何が起こるか分からない、裏切られるかも知れない…、そのような不安がいつもよぎるのです。だから、なるべくなら自分が主導権を握っていたいのです。自分の力でコントロール出来る範囲の中、いわゆる「私の国」の中で生きたいのです。 イエス様は、招いておられたのです。祭司長、民の長老たちを。神の国に…。彼らを自らのプライドが支配する「私の国」から解放し、神に身を寄せ、導かれる世界、神の国に招き入れようとしていた。イエス様は、「神の国は来ている。今ここにある。入りなさい。」と招かれた。神の国に入る、それはバプテスマのヨハネを信じて、悔い改めて洗礼を受けること、すなわち、生き方を変えること、目の前にいるイエス様を神の子として受け入れ、彼の弟子になって生きることだった。これが、祭司長、長老たちが神の国に生きることだった。 今日もイエス様は招いておられる。私たちを神の国に招き入れようとしておられる。神の国は、今日ここにある。イエス様がおられる所が神の国。イエス様と共に生きるところが神の国。神の国は、私たちが知っている世界よりも遙かに広く、高く、深く…。遙かに自由で、豊かで大きな世界、神に支えられ、導かれる世界…。私たちのプライドが支配する狭い世界、私たちの知恵や経験によってコントロールされる小さく偏狭な世界よりも遙かに…。 神の国、それは祈りの世界。祈りに導かれ、神の手の中に生きる世界。祈りは、神の懐に身を委ね、神の手に任せつつ生きること。自分の手でコントロールしようとすることから解放されて生きること。神の手、導きの中に生きること…。イエス様は、両手を拡げて、あなたを御自分の御腕の中に招き入れようとしておられる。あなたを、その腕の中にしっかりと抱き留めていて下さる。あなたは、イエス様の手の中に居る。 あなたを抱き留めて下さっているイエス様は、その言葉でたちまちイチジクの木を枯らしてしまうことが出来る方。山に向かって海に入れと命じることが出来る方。天から権威を授けられた神の御子。その方が言われるのです。 「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」 あなたの祈りは、神の国。あなたが祈る時、ここに、イエス様はおられる。神の国がある。あなたは今日、イエス様の懐に居る。そして、神の国に居るのです。
Kommentare