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執筆者の写真じょ〜じ

イエスの風 No.23

 過去に引きずられることがよくあります…。失敗や苦しみ、辛い経験が、私たちを捉えて放さないのです。まだ見ぬ未来が、そのような過去に支配されているように思えるて、まるで囚人のようなに生きてしまうことがあります。息が詰まりそうです。足がすくんで、一歩も前に進めなくなってしまいます。けれど、イエス様は、私たちを自由にして下さいます。私たちを愛して十字架について、すべての過去、罪や過ちを洗い流して下さいました。今日、イエス様は私たちに言われるのです。「見よ。すべては新しくなった。」今日も、明日も、ずっとイエス様の声を聞きたいのです。イエス様の声に引きずられて生きたいのです。


 主イエス様のいのちが、あなたのうちに満ち溢れますように。主がこう言われます。「あなたは、わたしの愛する子。わたしは、あなたを喜ぶ。わたしは、決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。安心して行きなさい。」


マタイの福音書25章31〜46節「いのちのことばがあなたに響く」


 生きたことばが人生を変える…。たかが、ことば…。一言のことばが、人を生かし、滅ぼす。しかし、その力は、人にだけ及ぶのではない。生きたことばは、人の心を変え、そして生き方を変え、世界を変えるのです。

 ことばは、不思議です。ことばは、生きています。人格を持っていると言ってもいい…。この心に語りかけ、魂に響き渡るのです。影響をもたらし、導くのです。あなたも経験があるでしょう。ことばに導かれたという経験。生かされた、人生を変えられた経験を。

 イエス様のことばは、歴史の中で、多くの人の人生を変え、導いて来ました。そして、それは個人に留まることなく、社会を変え、世界を動かしてきたのです。イエス様は、そのことばの中に生きておられ、生きて力強く働いて来られたのです。イエス様のことばは、いのちそのものです。

 「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(40)

 私たちの世界には、このことばによっていのちを得、人生を変えられた人たちがいます。そして、それによって世界が変わって来ました…。

 イエス様は、この世界が新しくなる日のことを弟子たちにお話しになりました。この世界が新しく変わる。神の心にかなった世界になると…。それは、愛と赦し、平和に満ちた世界。人はいのちの喜びに満たされ、死も病、苦しみも無く、共に生きることが出来る…。今、この新しい世界への渇きと憧れが至る所に見られます。世界は平和を求めて、飢え渇き、苦しんでいる。私たちの魂は、傷つき、呻いている…。この飢え渇き、苦しみ、呻きは、新しい世界への憧れ…。そして、私たちは何とかしたいと思ってるのです。

 イエス様は、新しい世界をお造りになります。今日もお働きになっている。イエス様を信じる者は、この望み、新しい世界への期待を、イエス様にかける、信じて、祈り、願うの者。そして、自分もその世界を造ろうと立ち上がる。手を上げ、生き始めるのです。私にも何かが出来る、何かがしたい…と。

 イエス様は、弟子たちに言われた。「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。…」(31~)

 イエス様は、この世界が新しくなる時、人は分けられると言われる。新しい世界にふさわしい者とそうでない者。そこで生きる者とそうでない者に…。そして、選り分け、区別される理由のようなものがあるのです。「わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれた。~これらのわたしの兄弟たち、しかももっとも小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(35~36)だと言われるのです。特別なことではない。何か大きなことを成し遂げることではない。むしろ小さなこと、日常の些細なこと…。小さい者に、すなわち、腹を空かせた者に食べさせ、飲ませ。服を着せ、見舞い、励ます。しかも、大勢にではなく、たったひとりにです。そして、さらには、それをした本人でさえ忘れてしまったようなことを…(37~39)。イエス様は、それをご覧になっている。イエス様は、そのような一つ一つの行為を見逃さず、心に留めておっしゃるのです。

 「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(40)

 イエス様は、ご覧になっている。小さい者になって…。私たちの行為を受け取っておられるのです。けれど、そう考えると逆に恐ろしくなって来るのです。急に不安になります。知らぬ間に小さい者を見逃しているのではないか…。この数日を振り返っても、身につまされるのではないでしょうか。「まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。」(45)と言われてしまうのではないかと…。

 私たちは、羊と山羊の狭間で、行ったり来たりしている…。イエス様は、小さい者となって、どんな些細な行為も見逃されない…。それを受け止めて、喜んで下さる。けれど、それをしなかったことも覚えておられる…。そして、さばかれる。神の国に生きる者とそうでない者を選り分けられる…。こんなことを考え始めると、今日、どう生きたら良いのか分からなくなってしまう。何か失敗が許されず、窮屈な部屋に閉じ込められたようになってしまう。

 けれど、イエス様は、私たちを恐れに囚われて生きるようなことを望んではおられない。むしろ勇気を与え、いのちに生かそうとしておられる。永遠のいのちを与えようとしておられる。永遠のいのちとは、このような愛に生きるいのち。小さい者に食べ物を与え、水を飲ませ、裸を覆い、見舞い、慰め、励ます力。イエス様は、それを私たちにお与えになる。私たちを山羊ではなく、羊にしようとしておられる。

 イエス様は、この話をされた後、弟子たちにこう言われた。「人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」(26:2)イエス様は、羊と山羊の話を覚悟を決めて語られたのです。山羊のために十字架につこうとしておられた。いのちがけで、山羊を羊にしようとしておられた…。イエス様は、滅ぼすためではなく、いのちを与え、生かすために語られたのです。

 イエス様のことばは、私たちにいのちを与えようとしている。イエス様は、今日、あなたを生かそうとして語られる。イエス様は、あなたにこう言われる。

 「さあ、わたしの父に祝福された人たち、世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(34、40)

 イエス様は、いのちのことばとなって、今日、あなたの内に響いています。

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