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執筆者の写真じょ〜じ

イエスの風 No,25

 6月にフリーになって以来、いろんな所に呼ばれ、出かけて行くことが多く、落ち着かない生活でした。けれど、半年ほど過ごし、少しずつ生活のリズムが出来つつあります。今月の誕生日を機に、しばらくお休みしていた観想の祈りを再開しました。聖書を読み、15~30分沈黙の祈りをします。観想の祈りの中で主にすることは、イエス様を観て、想うことです。イエス様と共に在ることを味わう、ただそれだけです。それをすると、必ず何かが起こる、閃きがあるとか、目に見える何らかの効果がある訳ではありません。けれど、確かなことは、イエス様と共に、在るがままの時を過ごしているのです。とかく、すぐに結果、成果、効果があることを期待し、そのようなことに囚われ、自分を評価してしまいがちな私には、ただイエス様と共に在ることが何よりも大切なことなのです。こうやって、イエス様と一緒に過ごしていると、いつか自分もイエス様に似た者に変えられて行くのではないかと信じているのです。私の人生の望みは、大胆不敵にも、イエス様を生きることなのです…(汗)。


 主イエス様のいのちが、あなたのうちに満ち溢れますように。主がこう言われます。「あなたは、わたしの愛する子。わたしは、あなたを喜ぶ。わたしは、決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。安心して行きなさい。」


イザヤ書40章1〜11節「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」


「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」(1)

苦しみや試練の中を歩み、悲しんでいる人、落ち込んでいる人、失望している人を慰めることは、本当に大変です。どうして上げたら良いのだろう…、どんな言葉をかけて上げれば…。

 そのような人たちの前に立つときに、自分が為す術を知らず、無力であることを実感させられます。下手な言葉は要らない、役に立たない…。そのような人たちを無理矢理に立たせようとしてはならないのです。でも、見捨ててはいけない…。ただ、共に痛み、苦しみを味わうしかない…、そう思います。どんなことがあろうとも、何を言われようとも、逃げないでそこに居る…。覚悟して共に居る…。その人が立ち上がれるようになるまで、じっと信じて、一緒にひざまずいている…。それしかないように思います。けれど、それが簡単に出来るかと言うと、そうではない。私たち人間は、それすら出来ない、それをする忍耐も力もないのです…。

 慰めると言うことは、苦しみや悩みを取り去ることとは違う…、むしろ、その中に留まることを可能にすることなのかも知れません。時が来るまで忍耐し、待ち望むことが出来るようにすること…。どんなに続く暗闇の夜も、必ず終わりがあり、まだか、まだかと手をこまねいているけれど、やがて光溢れる朝が訪れる…、そのことを信じて待ち望むのです。

 今から約2700年前、天地の創造主である神は、預言者イザヤにおっしゃった。預言者イザヤは、紀元前745年から680年頃まで、創造主である神の言葉を伝えるためにイスラエルの南ユダ王国で活動した預言者。当時のイスラエルは、国が南北に分裂し、北イスラエル王国は神から離れ、堕落の一途を辿り、遂にアッシリア帝国に滅ぼされてしまった。そして、南ユダ王国も、年月を重ね北イスラエルのように、神から離れ、堕落し、どうしようもなくなりつつあった…。神は、そのような南ユダの行く末を知っておられた。そして、イザヤを通して、紀元前700年代に王として国を治めていたヒゼキヤに、やがて来るユダ王国の辿る道、すなわち国がバビロンによって攻め入られ、滅ぼされてしまうについて証しされたのです(イザヤ39:5~7)。

 けれども、その後に、神は再び預言者イザヤにこう呼びかけられたのです。「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」神は、イザヤにユダの人々を慰めるようにおっしゃられた。彼らが、神から離れ、自らの内に苦しみを負い、滅びを招こうとしている中、彼らを慰めるように言われた。そして、言葉をお与えになった。(2、3~5、6~8、9~11を読む)

 神は、彼らがどんなに神から離れ、自らの内に苦しみを招き、滅んで行こうとも、その苦しみの先に必ず赦しがあり、癒されること…。神は、彼らから離れて行き、見捨てられたかのように思えても、必ず戻って来て、再び彼らの神となり、彼らを御自分の民とすると約束されたのです。彼らが、慰めを受け、癒され、立ち直らせることを約束して下さったのです。

「見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」(10、11)

 ユダ王国は、イザヤの言葉より100年後、バビロンによって滅んでしまう。しかし、神は、100年前から慰めを語られた。「あなたたちは必ず赦され、癒される。必ず慰めを受け、立ち直ることが出来る。」神は、ユダの人々が、神の言葉を忘れ、信じることが出来ず、失望してしまっても、彼らと共に歩み、語り続けた。そして、言葉は、紀元前530年頃に現実になる。バビロンは滅び、ペルシャのクロス王が、連れ去られた地からの帰還を命じたのです。

 しかし、時代は繰り返す…。人間は、何度も同じような過ちを犯し、失敗を繰り返し、自らを苦しめ、滅びを招く…。人類の歴史、私たちの人生がそれを証ししている。  

 今から約2000年前、ユダの人々は、再び神から離れ、苦しみを背負った。ローマに支配され、苦しんだのです。その時、イザヤに語られた神の言葉が再び響き渡った。 

「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。すべての谷はうずめられ、すべての山と丘は低くされ、曲がった所は平らになる。こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」(ルカ3:4~6)

ユダの荒野で一人の人が叫んだ。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ3:2)バプテスマのヨハネが、救い主の到来を告げ、その方を迎えるために悔い改めの洗礼を授け。そして、イザヤの言葉の通り、まことの羊飼いである神の御子イエス様が現れ、全ての人が神と和解し、祝福を受けることが出来るように、自らのいのちをささげ、死んで三日目によみがえって下さったのです。イエス様が、神の約束が真実であることを証しして下さった。神の言葉が滅びないこと、それが必ず成ることを見せて下さったのです。

「すべての人は、草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(6~8)

 神の言葉は滅びない。イザヤに与えられた神の言葉は、歴史の中で二度実現している。神は、この世界を救うため、すなわち、この世界を神の国とし、全ての人と和解し、祝福するために、この世界に約束し、慰めと希望を語られた。「私たちの神のことばは永遠に立つ」イザヤに語られて以来、バプテスマのヨハネの到来まで、約600年間、神はこの慰めの言葉を語り続けて来られた。人々は、忘れたかも知れない。見失い、暗闇に迷い出たかも知れない。しかし、神は、この言葉を語り続け、実現する時を備えておられたのです。

 そして今、私たちは、再びこの言葉の実現を待ち望んでいる。私たちは、イザヤが語った時代、バプテスマのヨハネが語った時代と同じような中に居る。世界は、様々な苦しみや困難を背負っている。私たちは、周りの悪に苦しめられ、自らの内にある罪から完全に解き放たれていない。呻き、苦しむ…。私たちは、「主よ。罪人である我らを憐れみ給え。救い出して下さい。」と叫ばざるを得ない者です…。けれど、ここに希望があるのです。

「『慰めよ。慰めよ。わたしの民を。』あなたがたの神は仰せられる。『エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。』」(1、2)

 神は、今日も私たちに慰めを語り続ける。2000年以上も、絶え間なく、救いを約束し、叫び続けている。神の言葉が響き続けている。慰めの言葉が、もう一度実現するのです。世界中に響き渡る時が来る…。主イエス様が、再び来られる。今度は、この世界を完全にお救いになり、私たちを全く新しく、神の子の似姿に変えるために来られる。(ヘブル9:27、28、ピリピ3:20、21)

 私たちが、クリスマスを待ち望み、祝うのは、過去の出来事、想い出を懐かしむためではない。私たちが祝うのは、今日という日のことであり、未来に与えられた希望と喜びを先取りして祝うのです。私たちは、今日、神から慰めと励ましをいただいて生きる。神の慰めの言葉は、今日ここに響いているのです。

「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」

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