今、新しい作品と向き合っています。タイトルは、「あなたはわたしの愛する子」です。作品制作は、とっても不思議な体験です。信じてもらえないかも知れませんが、自分ではない誰かに導かれて描いていると言う感じです。祈りに似ています。時には、ぱったり筆が進まなくなり、描けなくなることがあります。そんな時は、ただひたすら時がくるのを待ちます。どんなにあがいても、焦っても、どうにもなりません。けれど、時が来たら、また描くことが出来るようになるのです。そして、作品は知らず知らずの内に完成へと導かれて行くのです。とっても苦しいと感じることもあります。まさに、生みの苦しみです。でも、作品が完成した時、大きな喜びに包まれます。そして、確かに私を導かれた方がいる。創造主である神の臨在を味わうのです。
新しい一週間、創造主である神に導かれていることを心に歩まれますように。主イエスが、あなたの内に生きて下さいます。主はこう言われます。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。わたしは決して、あなたを離れず、また、あなたを捨てない。安心して行きなさい。」祝福がありますように。
マルコの福音1章14~20節「わたしについて来なさい」
受験生だった頃、自分の進路に思い悩み、心配を募らせていました。自分の人生を自分で決めなければならない…、けれど自分に自信が無いと言うか、じぶんと言う人間がそんなことを決めて実現させることが出来るのだろうかと言う事の重大さを恐れ、不安に感じていた。何か確かなもの、先の将来を保証するような何かが欲しい…、頼れるものが欲しいとすがるように神を求め、聖書の言葉をむさぼるように読んだ。すがれる言葉を求めた。そんな中、一節の言葉に出会った。「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」(旧約聖書・箴言16:9)
言葉には不思議な力があると思う。たかが言葉、目には見えず、魔法のように何かを引き起こす訳では無いが、私たちは、言葉によって生きたり、死んだりする…。自分が言い聞かせているのではない、自分ではない誰かが、自分より力ある、大きな誰かが語りかける…。その一言の言葉で、がぜん勇気が湧いてきて、試練を乗り越えて行くことが出来るようになる。
私たちは、自分の人生の歩みは自分で決めたいと願っている。自分で決めていると思っている…。けれど、現実はそう単純ではない…。むしろ、振り返って見れば、自分で決めた通りだと言い切れない歩みをしている。もちろん、何もしないわけではない…、いろんな計画を立て、それを実行しようとする。やっている内に、計画通りに行くこともある…。けれど、いろんなことが起こり、計画通りに行かず、道を変えざる得ないことになったりする…。突然、横槍が入り、進路変更をさせられることが日常的に起こっている。私たちは、そんな中、苦労しながらも、案外上手く対処し、乗り越えて来ている。神様は、私たちに、このような日々を生き抜くことが出来るようにと知恵と力を与えて下さっている。
神は、私たちを助けて下さる。私たちに知恵を与え、いろんな事が起ころうとも、それに向き合い、乗り越えることが出来るようにして下さる。試練と共に脱出の道を備えて下さる。神は、私たちの人生に問題が起こらないようにはなさらないようです…。試練が起こることを許されるのです。けれど、それに呑み込まれ、打ち負かされてしまわないように支えて下さる。そして、私たちを練り、きよめ、癒し、神の子、神のかたちに創造された人間性を創りだそうとしておられる。あなたが変わるのです。あなたの中に神のかたちが創りだされる。あなたが、もっとあなたらしく、豊かな人間性の中に生きるようになる…。それは、もう言葉では伝えきれないものです…。何と表現し、伝えたら良いのでしょう…。
今日は、この一言だけ伝えます。それは、「主イエスに似る者になる。主イエスのように愛に生きる人になる。」神の子、神のかたち、創造された人間性は、人となってこの地上を歩まれた主イエスの中に十二分に表されているのです。私たちは、主イエスを観ればいい。主イエスを知り、真似るのです。そうすれば、自ずと、そうなるのです…。
「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(15)主イエスは、人々の前に立ち、語り始められた。福音、良い知らせを宣べ始めたのです。主イエスが語られたのは、良い知らせです。「神の国が近くなった」今、ここに「神の国」がある。「神の国」私たちが心から願い求める世界です。皆が喜び、平和に過ごすことが出来る。あらゆる苦しみ、不安、叫びから解放され生きることが出来る…(言葉では言い尽くせない…)。そのような日々が近くなった、段々来ようとしている。主イエスは、「神の国が近くなった」、この世界が新しく変わり始めていると言うことを告げられたのです。
そして、語り出してすぐにあることを始められたのです。それは、行き巡りながら、出会う人たちに「わたしについて来なさい」(17)と声をかけることです。主イエスは、仲間を集め始められたのです。「わたしについて来なさい」どうして主イエスは、こんなことをされたのでしょう。仲間集め…、一緒に歩む仲間、弟子を集められた。それは、主イエスと共に居ること、歩むことが、まさに神の国の経験だったから…。主イエスは、お呼びになった人たちに、共に集まり、一緒に生きて、神の国が近くなったこと、神の国に生きることを味わわせようとされたのです。
「わたしについて来なさい」それは、神の国への招きでした。そして、「悔い改めて福音を信じる」ことだった…。「わたしについて来なさい」主イエスと共に生きること、それは、神の国が近くなったことを味わい、神の国を生き、福音を信じること。主イエスは、歩き回り、声をかけて行かれました。「わたしについて来なさい」そして、漁師であったシモンと兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブと兄弟ヨハネが、その声を聞いて従ったのです。どうして彼らは主イエスの招きに応え、従ったのだろう…。その理由は一切説明されていません。主イエスの声に惹かれたのでしょうか…。何か御業を見せられたのでしょうか…。彼らの中に渇きがあったのか…。それは分からない…。けれど、この福音書は、どのような理由で従ったのか…、とかそういう事を説明したかったのではない。むしろ、彼らが主イエスの声を聞き、その招きにすぐに応え、ついて行ったと言うことに焦点を当てている。
主イエスが地を行き巡り、「わたしについて来なさい」と人々を招き、それに応えたシモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、主イエスの最初の弟子たち。神の国を経験した人たち。主イエスと共に生活をし、彼が神の子であることを目の当たりにし、十字架の死と復活を目撃したのです。彼らが福音、主イエスの証人となり、主イエスの声を伝え、生ける神の子キリストと信じた人たちの集まりが生まれた。この福音書は、主イエスの名によって集まった人々に語り続けて来たのです。「わたしについて来なさい」今ここにいるあなたたち、この言葉を聞くあなたたちは、主イエスの招きの声に従った人たち、今ここで神の国を経験しているのだと…。
「わたしについて来なさい」主イエスの声は、今日も響いている。主イエスは復活されたのです。この地に聖霊が降ったのです。今、ここに居るあなたは、主イエスの声を聞いて、従った人。今日、あなたは、主イエスの声を聞き、彼と共に居て、神の国を経験しているのです。そして、神の国を経験した者は、こう言うことが出来る。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
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