「庭上一寒梅 笑侵風雪開 不争不力 自占百花魁」
先日、友人に茶室に招いて頂きました。茶室には、新島襄の漢詩が掛けられていました。今、その意味を知り、自分の歩みと重ねながら、心に何度も繰り返し噛みしめ、味わっています。私の心に、茶室にこの詩を掲げ、招いて下さった亭主の秘められた心が染みてきて、温かな感動が広がっています。この詩を作品にして描きたいと思いました。
キリストの愛が、あなたの内に満ち溢れますように。主がこう言われます。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。安心して行きなさい。」
マルコの福音1章12~15節「試練の中にある神の国…」
「どうしてこんなことが起こるんだろう…。私の人生は、もっと祝福されるはずなのに…。そのように約束されていたと思っていたのに…。」ときどき、そんな思いが過ぎります。辛いことが起こるんです。予想もしなかったことが起こって、行く道、計画を変更せざる得ない時があるのです。そんな時、私たちは、神様を疑い、見失い、失望し、恐れます。心が荒んで、潤いがなくなり、殺伐とした気持ちになり、苛立ち、周りの者を傷つけたくなる衝動にさえ駆られます…。
荒野…、それは、遠い国の何処かにある場所であるかのように思われていますが、私たちの日常に潜んでいる…。私の家、私の心の奥深い所に隠された場所なのかも知れません。神様がおられないように思える場所、失望と恐れによって人であることを見失ってしまいそうになっている私が横たわる場所。私の魂が、そこで、いのち、喜び、希望を求めて喘いでいるのです。
主イエス様が、天から響く祝福の声を聞いたすぐ後に、聖霊によって荒野に追いやられたと言うのは、驚くことです。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」と言う言葉を聞くと、イエス様のその後の歩みは、愛と祝福に満ちた声の響きに包まれながら、幸せな日々だったのではないかと言うような印象を持ってしまうかも知れません。しかし、聖霊は、イエス様を強いて荒野に導いて行かれたのです…。そこに40日間とどまり、サタンの誘惑を受けられた…。
サタン…それは、神様と人の結びつきを壊そうとする者、人を惑わす者。マタイ、ルカの福音書は、サタンがどのようにイエス様を誘惑し、イエス様がそれをどのように退けられたかが記している。しかし、マルコは簡潔に出来事のみを記す(13)。それは、何故なのか…。想像の域を脱することは出来ないが、マルコは、イエス様が荒野に導かれたことと、サタンの誘惑を受け、勝利されたと言う出来事に焦点を当て、注目させようとしていたのではないかと思う。そして、ここに記されているこの出来事は、私たちにとって恵みであり、福音そのものなのです。
福音は、教えではありません。福音は、出来事です。イエス様の出来事、イエス様がなさったこと。それが福音です。さらに言うならば、イエス様が福音…。
イエス様は、神様に祝福された方。彼の上に聖霊が降り、天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子…」そして、同じ聖霊が、イエス様を荒野に導いた。追いやった…。イエス様は、荒野に行かなければならなかった。40日間、そこにとどまり、サタンの誘惑を受けなければならなかった。なぜイエス様は、荒野に行かなければならなかった…。どうして、サタンの誘惑を受けなければならなかったのか。
荒野…、それは、私たちの居る所…、私たち自身が荒野だから。そして、私たちは、いつもサタンの誘惑にさらされているから…。神様無しに世界が存在し、動いているように思わされています。日常の中に神様が見えて来ないのです。魂が飢え渇く…。神様に、そして愛に飢え渇くのです。心の隙間に、魂の闇に、サタンが語りかける…「神は居ない…。神が世界を支え、あなたを生かしていると言うのは嘘だ、世の中カネだ…。あなたが愛されているのは嘘だ、あなたは呪われている…。」
私たちは、荒野に生きている…。苦悩が溢れ、私たちを呑み込もうとしているように見える。そして、そのような中で、失望の闇に引き込もうとする力と信仰のせめぎ合いをしているのです。ある人は、ギリギリの中で闘っている…。絶望の波がのど元まで迫り、溺れてしまっている…。闇に覆われ、身動きが取れなくなって…。
しかし、そこに主イエス様が来られたのです。聖霊は、イエス様を荒野に追いやられた、強いて導かれた。イエス様は40日間、荒野にとどまって、サタンの誘惑を受け続けた…。そして、マルコは、その最中の荒野の様子について次のような情景を描き加えているのです。「野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。」(13)イエス様は、荒野で野の獣と共に住み、御使いたちがイエス様に仕えていたと言うのです。野の獣…、それは荒野に住む動物でしょうか…。可愛いペットのような生き物ではないでしょう。むしろ、人に危害を加えるような野獣と考えることが出来る…。けれど、そのような野獣と共に過ごしながら、危害を加えられることなく過ごしていた(イザヤ11:6-9,43:20)。さらに、天使が仕えていた。これは一体何を表しているのでしょう…。「神の国」、荒野に、神不在と思われる荒野に「神の国」が存在していた…、「神の国」が生まれていた、介入していたと見ることが出来るかも知れない…。イエス様のおられる所が神の国になっていた。イエス様は、荒野の40日間を耐え抜かれただけではなく、誘惑する者、サタンを退け、勝利され、荒野に「神の国」をもたらされた。イエス様は、人が神様によって生きる存在、信仰と希望と愛によって生きる者であると言うことを勝ち取って下さった。これが「神の国」です。それは、どんな荒野、苦しみや試練でさえも、奪い取り、支配することが出来ないもの。私たち人間を、神様の愛、「神の国」から引き離すことが出来る者は、この世に誰も居ないのです(ローマ8:37-39)。
イエス様は、荒野に来られたのです。そこで勝利を取られた。「神の国」をもたらされた。イエス様がおられる所は、どんな所でも「神の国」です。たとえ荒野に見えても…。今日、荒野でサタンの誘惑を退け、勝利されたイエス様、荒野に「神の国」をもたらされたイエス様が、私たちの所にも来て下さっている。
私たちは、荒野…。試練の嵐が吹き荒れ、サタンの声に惑わされ…。けれど、主イエス様がおられる。そして、ここに「神の国」を始めておられる。
どんな苦しみの中にあっても、打ち負かされてしまうようなことがあっても大丈夫…。イエス様がすでに、この荒野でも勝利されたのです。今日、イエス様が共におられるのです。そして、あなたの中に「神の国」があり、あなたは「神の国」の中に居るのです。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
「福音を信じなさい」
神の国を信じなさい。私たちの福音である主イエス様を信じなさい。
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