今日は、千葉県の市川にある聖望キリスト教会の礼拝でお話しをすることになっています。昨日は、浴風会と言う老人ホームのクリスチャンの方々の集まりにてお話しをしました。「浴風会」銭湯のような名前ですが、とても良い名前だと思いました。風を浴びると言うこと、心地よい風に身を浴することはとても贅沢なことだと、「浴風会」と言う名前を見ながらしみじみ思いました。信仰を持って生きる、それはイエスの風に吹かれて生きること、心を癒す優しい風に身を浴するような経験なのだと思います。 今日も主イエス様の祝福がありますように。あなたが癒されて、周りに優しい風を吹かせることが出来ますように。 主イエスのいのちが、あなたの内に溢れますように。主がこう言われます。「あなたは、わたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。安心して行きなさい。」
マルコの福音書10章17〜27節「主イエス様のまなざし」 今日、イエス様は、あなたのことをじっと見つめておられます。そう、あなたは、イエス様にとって、とても大切な人です。イエス様は、あなたの心の内を、じっと見つめておられます。あなたの心が満たされているか、平安でいるか、喜びがあるか…。 イエス様は、いつもあなたのことを想っています。あなたを心配しています。あなたが、自分の人生を喜び、感謝することが出来るように…。今日という日、与えられたいのちの時間を、尊いことに使うことが出来るように。いのちを燃やして生きて欲しいと願っておられます。 私たちのいのち、いのちの時間は、使って初めて価値が生まれます。いのちは、使うために与えられています。あなたは、いのち、使ってますか。何のために、いのちを使っていますか。何のためにいのちを使えばいいのか…、いのちの使い道を知るって大切なことだと思います。私たちは、みんな、探しています。必死に探しています。そして、悩んでいます…。 ひとりの青年が、走ってイエス様の後を追っかけて来ました。必死だったのです。そう、人は、必死になると走ります。一生懸命になると走るのです。実際に走ることはないかも知れませんが、心は走ります。必死です。脇目もふらずに、一心に、一つのものに目がけて急ぐのです。あなたは最近、走りましたか。どんなことで走りましたか。何が気になりますか。何を見つめていますか。あなたの心の中を占めていることは何でしょうか。将来への不安でしょうか。友人とのこと、家族のこと…。 このイエス様のもとにやって来た青年は、財産をたくさん持っていました。とっても真面目で、優秀で、地位もありました。人から見れば、何不自由ない暮らしをして、人からうらやましいと思われるような、出世街道をひた走っているような人生を送っていました。けれど、彼は必死に何かを求めていたのです。彼は、こう言いました。 「永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」(17)「永遠のいのちが欲しい」彼は、そうイエス様に求めたのです。「永遠のいのち…」一体何でしょうか。どうして彼は、それを求めたのでしょうか。「永遠のいのち」それは、一体何でしょうか。死なないこと、ずっと、ずっと生きることが出来るようになること…、年をとらないこと…。とにかく、彼は、死にたくなかった…のかも知れない。どうしてか…、それは、今とっても恵まれていたから、全てを失いたくなかったから…。今あるものを失わないようにするために、どうしたらいいのか…。彼は必死に、今まで自分が築いて来たものにしがみついて、守ろうとしていたのかも知れません。今持っているものを失わないために、どうしたらいいのか…、「永遠のいのち。そうだ、永遠のいのちだ。死なないいのちだ。それが自分のものになれば…」 それでイエス様にたずねた…。「永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」(17)するとイエス様は、彼に答えました。「戒めを守ることだ。『殺すな』『姦淫するな』『盗むな』『偽証するな』『欺き取るな』『父母を敬え』」(19)すると、青年は答えます。「そんなことは、小さい時から守っています。」(20)真面目な青年は、その戒めを守っていました。彼には、誤魔化しはなかったと思います。イエス様は、彼の答えを、彼をじっと見つめながら聞いておられました。その目は、優しい目でした。彼のことを、とっても大切にしておられる目でした。彼のことを慈しんで、大切な宝物を見るかのように…。そんな風に見られたことがありますか…(ラルシュでの経験)。イエス様は、大事な我が子、愛する恋人を見るように、青年を見つめながら、こう言われたのです。 「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」 イエス様は、とっても大切なことを言われました。「あなたには、欠けたことが一つあります。」と言われました。「あなたは、大切なものを見失っている、大いなる勘違いをしている…。あなたが求めている永遠のいのちとは、あなたが考えているようなものではない…。永遠のいのちとは、永遠に生きながらえ、何一つ失うことなく、その手に持っていられることではない。永遠のいのちとは、神様の愛に生きることだ。その愛で、あなたの隣人を愛することだ。神様は、そのような愛を持って生きるものを、永遠に生かして下さる。やがて来る日に、神の国、天国で生かして下さる。」 人は、永遠のいのちがなければ、神の国、天国に入ることが出来ない…、そこに生きることが出来ないのです。神の国、天国は、神様の愛によって生きる世界です。互いに愛し合い生きる世界。心から人を愛し、互いに自分の大切なものを分かち合いながら生きる世界です。愛し合う国です。 「あなたには、欠けたことが一つあります。」イエス様は、青年におっしゃったのです。彼には、何が欠けていたのでしょうか。それは、「愛すること」です。しかも、「神様の愛で愛すること」です。全ての持ち物を売り払って、貧しい人に施して…、イエス様の弟子になってついて行くこと…。そのような愛に生涯を献げて生きること。 イエス様は、彼におっしゃいました。「わたしについて来なさい」イエス様は、彼を招かれたのです。一緒に神様の愛に生きる道を歩もう。一緒に、永遠のいのち、神の国に生きよう。「わたしについて来なさい」そう言われて、青年は顔を曇らせました。そして、悲しみながら、イエス様のもとを立ち去ったのです…。どうして彼は、立ち去ったのでしょうか…。彼の物語は、ここで終わってしまいます。この先は、どうなったのでしょうか。私たちは、それぞれに想像することしか出来ません。 しかし、この物語の続きは、私たちに迫って来るのです。私たちに問いかけてくるのです。この聖書を飛び出して、イエス様が、私たちに、あなたに問いかけて来るのです。「わたしについて来なさい」けれども…、私たちは、その声を聞いて、顔を曇らせ、心が悲しみでいっぱいになります。優しく、慈しみに満ちたイエス様のまなざしに、私たちの心は曇ります。私たちには、イエス様が求めておられるような愛がない…。私は、こんなふうに生きられない…。こんなふうに生きられたら、どんなに清々しく、素晴らしいだろうか…、私たちの周りに居る、神様の愛に生きている人たちのことを見ると感動し、心が震えます…。けれど、いざ私がそのように生きるとなると…、恐くなります。 この愛が、神の国に生きる条件ならば、誰がそこに入ることが出来るのだろうか…。「愛がない…」でも、「愛に生きたい」イエス様は、あなたが神様の愛に生きるように呼んでおられます。「わたしについて来なさい」イエス様は今日、あなたを呼んでおられます。あなたを招いておられます。一緒に生きよう。一緒に神様の愛に生きる道を歩もうと招いておられます。 イエス様は、あなたを招いています。慈しみに満ちた眼差しで見つめておられます。あなたが、神様の愛に生きることが出来るようにしたいのです。あなたは、今まで生きて来て、どれほど愛することに失敗して来たでしょうか…。愛のない言動を繰り返して来たでしょう。そのような中で、自分には愛がないと知らされて来たのではないでしょうか。私たちは、罪人です。神様の愛から離れて生きているのです。けれど、イエス様は、罪を赦して下さいます。あなたを赦して、罪を洗い流して下さいます。イエス様は、あなたを赦し、きよくするために十字架でいのちを捨てて、死んで下さいました。三日目によみがえって、今も生きておられます。 イエス様は、今も生きておられて、あなたが罪に生きるのではなく、神様の愛に生きるように共に生きて、力を与え、助けて下さる。あなたを変えて下さるのです。 想像できますか。あなたが人を愛し、神様の愛で愛して生きる姿を。あなたは、望みますか。神様の愛に生きる人生を…。「わたしについて来なさい。わたしと一緒に行こう。」イエス様は、あなたを招いておられます。あなたは今日、人生を変えたくありませんか。イエス様は今日、あなたの人生を変えようとしておられます。イエス様は、あなたを神様の愛に生きる人に変えることが出来ます。もうすでに、それを始めておられるのです。 「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
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