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執筆者の写真じょ〜じ

イエスの風 No.6

 先週1週間を愛知県で過ごして、昨日東京に戻っ来ました。フリーになって、色々な所へ出掛けて行くようになり気付くことがあります。それは、人生が出会いによってかたちづくられて行くと言うこと。出会いがいのちだと。自分は、良い出会いに恵まれているとつくづく思います。私を大切に思ってくれる人がたくさんいて、時間を割き、支え、励ましてくれます。今回の旅もそういう出会いがたくさんありました。自分で計画していたわけでなく、与えられて来たのです。  今週から1ヶ月カナダに出掛けます。そこでも、また新しい出会いがあるでしょう。主イエス様が起こされる出会いの奇蹟を味わいたいと思います。そこで生まれる新しいことに期待しています。♪Love letter from Canada♪カナダからメッセージをお送りできればと願っています(笑)。  主イエスのいのちが、あなたの内に溢れますように。主がこう言われます。「あなたは、わたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。安心して行きなさい。」

 追伸:九州の災害の地にある人たちのために祈りましょう。

マタイの福音書9章35〜38節「祈りなさい」

 目は心を映し出す鏡のようなものです。人は、自分が見ようと思うものを見つけ出します。私たちの目は、見たいものを探しているようです。絵を描いて、皆さんに見てもらう機会が増えて来ました。そして、それを見た人たちが、口々に感じたことなどをお分かち下さるのです。そうすると、とても不思議なことが起こります。それは、時に見る人たちが、描いた人が意図していないこと、無意識のうちに表現したようなことを見つけ出してくれるのです。また、作者ではなく、鑑賞者の内側にあるものが見えて来たりするのです。  私たちは、色んなものを見ています。視界の中にあるのです。けれど、全てが見えてはいません。と言うか、視覚の中にはとらえられているのですが、意識の中に結びつかないで居て、見えていないと言うことになってしまうのです。  今日、何が見えるでしょうか。何を見ているのでしょうか。  主イエス様は、ユダヤの町や村を巡り歩いておられました。そうすると、そこには大勢の人が集まって来るのです。そして、イエス様は、集まった人たちを見ておられた…。イエス様には見えるものがあった。「また、群衆を見て、羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている」(36)集まって来た人たちが、羊飼いのいない羊のように弱り果て、倒れているように見えた…。そして、「かわいそうに思われた」、深く憐れみを覚えられたのです。  主イエス様の目には、はっきりと見えるのです。羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている姿が見えるのです。イエス様は、見ておられたのです。注目しておられたのです。羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている人たちに…。  私たちの日々の暮らしの中には、様々な苦しみや痛みがあります。今苦しんでいる人が居ます。弱り果てて、声も上げられない人たちが居ます…。主イエス様の前には、代わる代わる、そのような人たちが訪れました。まるでイエス様に惹き寄せられるかのように…。人々が惹き寄せられたのか、イエス様が近づいて行かれたのか、区別がつきません。でも、主イエス様は、はっきりと、そのような人たちに注目しておられたのです。いつも、そこに目が向けられたのです。そして、数知れず奇蹟が行われ、人々が癒され、立ち上がり、解放されたのです。  イエス様は、人の中にある苦しみや痛みを見て、知っておられる…。自らのこととして感じておられるのです。主イエス様の知らない苦しみはない。イエス様が感じない痛みはないのです。  今、世界中に苦しみや痛みがあります。今日も苦しんでいる人がいます。傷んでいる人がいるのです…。主イエス様は、それを見ておられる。それを感じておられるのです。主イエス様の眼差しは、今日、そこに向いている…。  だから、私たちは、こう言うことが出来るのです。私たちの目が見ている苦しみや痛み、弱り果て、倒れている人たちを見てこう言うのです。「主イエス様は、今ここにおられる。この苦しみ、痛みをご覧になって、深いあわれみの内に、魂が揺り動かされている…」イエス様の眼差しは、はっきりと開いている。イエス様は、見ているのです。様々な痛みの現実を…、見ているのです。知っているのです。深いあわれみを持ってご覧になっているのです。  今日、私たちは、このイエス様の眼差しを感じることが出来る。私たちが、苦しむ人々を見て、心が痛む時、憐れみの心で揺り動かされる時、それは、私たちの内で主イエス様がお働きになっているのです。イエス様が、私たちの内におられ、その痛みに共感しておられるのです。私たちの内におられるイエス様を感じることが出来るのです。イエス様は今日、私たちの内におられるのです。私たちの内で憐れみとなってお働きになるのです。イエス様は、私たちを通して見ておられるのです。私たちを通して感じておられるのです。イエス様は、私たちの内で苦しみ、痛み、憐れみを感じておられるのです。  そして、イエス様は、私たちの内でお語りになるのです。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(37、38)イエス様は、御許に集まって来る人々をご覧になり、深く憐れみ、神の国の福音、希望を語り、苦しみや病を癒して来られました。それをしながら、尽きることなく押し寄せる人々、溢れてくる苦しみや痛みを目の当たりにして、弟子たちに繰り返し、繰り返し言って来られたのです。「働き手が少ない…。働き手を送って下さるように祈りなさい。」  イエス様は、私たちの内におられて、ずっと語り続けておられます。  「苦しむ者、痛む者を見なさい。憐れみをもって、苦しみや痛みを癒し、慰め、希望を語る人が起こされるように祈りなさい。」

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