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執筆者の写真じょ〜じ

イエスの風 No,33


 3月11日…私たちにとって忘れられない日です。7年前、私たちは信じられないような大きな痛みの中を通らされました…。その傷は、まだまだ癒えないままです。今年、その日は、日曜日でした。礼拝するために共に集まった人たちと、私たちに与えられたいのちに感謝しました。共に、生きていることを、神様の祝福として受け止め、お互いのことを祝いたいと思いました。この大きな痛みを通らされたことが、日本中、いや世界中でいのちの祝福を共にお祝いすることに繋がれば…と、そう願うのです。

 イエス様のいのちの祝福が、あなたがたのうちに満ち溢れますように。主がこう言われます。「あなたは、わたしの愛する子。わたしは、あなたを喜ぶ。わたしは決して、あなたを離れず、また、あなたを捨てない。安心して行きなさい。」アーメン。


詩篇22篇1~2節「私の神様。どうして…」


 イエス様のいのちの祝福が、あなたがたのうちに満ち溢れますように。主がこう言われます。「あなたは、わたしの愛する子。わたしは、あなたを喜ぶ。わたしは決して、あなたを離れず、また、あなたを捨てない。る所、知らない所で、この世界は苦しみ、呻いています。

「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。」(1、2)

 悲痛な叫び、息も絶え絶えになるような呻き…。神様を信頼する者が苦しむ…。苦しめられているのです。

 私たちは考えます。私がこのように苦しみに遭うのは、私が何か悪いことをしたことの報いなのだろうか…。苦しみに遭う時、惨めさを味わい、自分には価値がないかのように思えて来る。苦しみを味わっていない人たち、幸せそうに暮らし、嬉しそうに笑っている人たちを見て、妬ましく感じる。苦しみに遭うとき、自分を責める。誰かをを責めたくなる…。そんな苦しみの中で、訴えるような気持ちで神様を見上げます。「神様。一体、私が何をしたと言うのか…。どうして、こんな苦しみを味わわなければならないのでしょう。何故、他の人ではなく、私なのか…。」けれど、答えはない…、状況は変わらない…。神様が沈黙しておられるかのようです…。

 私たちは、苦しみの中で答えを捜し、神様に願う…。この苦しみから逃れる道を捜し求めます。どうすれば、今すぐにここから脱出できるか、苦しみを速やかに取り去ることが出来るのかと捜します。神様、どうかこの苦しみをすぐに取り去って下さいと願います…。苦しみの理由を見つけようとする。どういうわけでこうなったのか、この苦しみにはどんな意味があるのか…と。苦しみに理由をつけ、苦しみに価値を見出し、忍耐し、乗り越えようと…。神様、私が苦しむ理由を教えて下さいと祈る。けれど、苦しみは簡単に過ぎ去らない…、どうして苦しまなければならないのか、はっきりした理由が見つからない…。ただ、ただ、苦しいと呻くのです。

「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。」

 イエス様が、祈られた。十字架の上で、息を引き取られる寸前に…。イエス様が「どうして…」と。「見捨てられた…」と訴え、祈られた。驚きです。神の子が、神様に愛されたイエス様が…「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか…」と。ああ…、この祈りは一体何なのでしょうか…。私は、この祈りにとてつもなく違和感を感じます。自分は、未だかつて、こんな風に祈ったことがない…、祈れません…。そこまで神様と深い信頼で繋がっていないように感じるのです。「わが神、わたしの神様」と言うほどの親しさがあるのだろうか…。「どうして、私をお見捨てになったのですか…」と問うほどの聖さ、潔白さがない…。心の何処かで、自分は苦しみに遭って、見捨てられても仕方ない、あの事、この事の故に報いを受けている…と思い、口を閉ざしてしまうのです。

「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」それは、イエス様だから祈れたのだと思う…。けれど、イエス様は、この祈りを、ただご自分の苦しみの故にささげられたのではない。これは、ただの呻きではなかった…。これは、途方もなく苦しみの中での嘆きであり、呻きでありながら、同時に詩篇、神への祈り、神を崇める賛美、希望の歌…。イエス様は、十字架の上で「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」と呻きつつ、死に向かわれた。けれど、その先に復活を見ておられた…。死が、いのちに呑み込まれ、嘆きが、希望に変わり…、暗闇から明けの明星の光が輝き出ることを知っておられた。

「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」それは、生みの苦しみの呻きであり、信頼と希望の歌。そして、イエス様は、この祈りをご自分のためにではなく、私たちのために、私たちと共に、私たちの代わりに、私たちの代表となって、神様に向かって祈られた。イエス様は、この世界中の、そしてあなたの苦しみの只中に立って祈られる。「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」そこから、新しいいのちを始めようとしておられる。新しいいのち、すなわち神様との生きた出会いです。「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」ここで、神様に出会う。本音で出会うのです。イエス様は、私たちにも祈らせて下さいます。「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」

 私たちは、神様に絶望を告白することを恐れる必要はありません。十字架の上で呻き、叫ばれたイエス様は、十字架で苦しまれた後、よみがえられました。神様の沈黙を耐え忍び、死んでよみがえられたのです。イエス様は、死を打ち破られた。絶望から希望を生み出された。イエス様は、私たちの呻きを、必ず喜びの歌に変えて下さいます。私たちは、イエス様が、よみがえられたように、死の淵から立ち上がるのです。復活の光を浴びて、新しい希望の朝を迎え、目覚めるのです。そして、必ず、神様をほめたたえる日が来るのです。神様が、私たちを光で照らし、目覚めさせ、その唇に誉め歌をお与えになるのです。

 イエス様は、もうすでにあなたの内で御業を始めておられる。あなたの内で祈り、神様を誉め称えておられる。たとえあなたが祈れなくても、あなたが賛美出来なくても、主イエス様が祈っておられる。

 イエス様は、あなたの内で祈られる。「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」そして、神様を賛美しておられる。「私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう。主を恐れる人々よ。主を賛美せよ。ヤコブのすべてのすえよ。主を賛美せよ。イスラエルのすべてのすえよ。主の前におののけ。まことに、主は悩む者の悩みを、さげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。」

 あなたの内に、主イエス様の祈りと賛美の声が響いています。

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