説教の準備と言うのは、なかなか手強いものです。どんなに聖書を詳しく、正確に調べても、その意味を理解していても、それだけでは生まれて来ないのです。心が動かなければ、感動と呼べば良いのでしょうか、それがなければ筆は進みません。それは、絵を描くことと似ています。作品を生み出すときは、いつも心が動かされます。自分が筆を走らせるというよりは、何かに動かされるように、神様に動かされて筆を走らせるのです。そういう心の動きが生まれるまで待たなければなりません…。そう考えると、自分で言うのもなんですが、毎回、毎回、神様が説教の言葉を与えて下さると言うことは、ちょっとした、いや、とてつもない奇跡なのだと…。
今週も、神様が共におられます。その愛で、あなたの心を温め、いのちを吹き込んで、生かして下さいます。「あなたは、わたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。わたしは、決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。安心して行きなさい。」
マルコ福音書4章26~34節「愛の国は…」
今から約450年前、神の愛を示す「アガペ」と言う言葉は「御大切」と訳されたと聞いた。神様が私たちを愛される。私たちが互いに愛し合う…と言うことを、神様が私たちを大切にされる。私たちが互いに大切にする…と表していたらしい…。何かとても新鮮な気持ちがした。ふと思った。愛と言う言葉を、言い換えてみてもいいかも知れない…。今、「愛」と言う言葉が、力を失っているように感じた。「愛」と言う言葉が溢れていて、言葉だけが独り歩きしていて、実態が見えない…、「愛」と言う言葉に対して失望することがあって…。「愛」と言う言葉は、頻繁に聞くけれど、それを見ることが出来ない現実が余りに多くて…。「愛」に期待出来ない。希望を見出せなくなっているように感じるのです。
先月、英国で行われた結婚式、ヘンリー王子とメーガン・マークルの結婚式での説教が仲間内で話題になった。マイケル・カリー司教の説教。彼は、力強く語った。
「愛には力がある。愛を見くびらないで…。想い描いてください。愛こそが道である世界を。愛こそが道であるわたしたちの家、家族を。愛こそが道であるご近所、コミュニティ。愛こそ道である政府、国々を。愛こそ道であるビジネスや商売。想い描いてください。このくたびれた旧い世界で、愛こそが道であるときを。愛こそが道であるとき…、利己的でなく、犠牲的であり、贖いの愛こそが道であるとき…、そのとき、空腹のまま床につく子どもたちはこの世界から二度といなくなるでしょう。愛こそが道であるとき、正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせるようになる。愛こそ道であるとき、貧困は過去の歴史になる。愛こそ道であるとき、大地は聖所に。戦争はなくなる…。愛こそ道であるとき、互いに大切にし、本当の家族のように…。」
愛を語る。愛に生きる道を…。これこそ人を生かす道、人のいのちであると信じて。「愛」これこそ、神様と出会うこと、主イエス様を見る道だと。神の国…、それは神様が居られ、治められる所。イエス様が憧れ、仰ぎ見ておられた世界。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」「御国が来ますように…」神の国、それは、愛が治める世界、「愛の国」。
イエス様は、神の国のことを話された。「神の国は、このようなものです。…神の国はどのようにたとえたらよいでしょうか。どんなたとえで説明できるでしょうか。」(26~32)イエス様は、神の国のことをたくさん話された。そして、それを話すことは、イエス様にとって心踊るような経験。イエス様は、神の国に憧れ、それを仰ぎ見ながら、想像しながら、心躍らせてお話しになった。「神の国はどのようにたとえたらよいだろう。どんなたとえで説明できるだろう…」
イエス様は、神の国がどんなふうに成長するのか、それが広がって行く様子を話された。そのイメージを伝え、見せようとされた。イエス様には、見えていたのです。神の国が、それが今ここで、そしてこれから弟子たちの中で、人々の間でどんなふうに育って行くのかを…。神の国は、私たちが知らず知らずの内に、芽を出し、実を実らせ、収穫を迎える。小さな、小さな種のようであるにも関わらず、どんどん成長して、他に比べられないくらいに大きなものになる…。植物が育って行く様子を見たことがあるだろうか。それは、本当に不思議です。種から芽が出て、どんどん育ち、実を実らせる姿は、神秘と呼ぶに相応しいもの。それをじっと見ていると、いのちの力強さを感じ、感動と呼べるような心の震えを覚える。生きる勇気が湧いて来る。
想像して見て下さい。神の国が大きく、大きく成長する様子を…。愛の国が広がって行く様子を。信じられないかも知れない…。神の国、愛の国が広がって行くなんてことを。私たちは、毎日、暗く悲しいニュースを聞かされ、自分たちの中に冷え切った愛を見つける…。愛のない現実を見せられる…。家に帰ると、問題が絶えない、悲しい現実が待っている。本当に神の国はあるのか。愛の国が広がって行くのだろうか…。無力さに打ちのめされ、問題の大きさに、どこから手を付けていいかも分からず、途方に暮れて立ち尽くす…。何をやっても無駄…、悪は消え去らない、問題は後を絶たず起こる。そんな中で、自分のやっている努力は無意味に思える。自分ひとりが、ちょっとした親切心を奮ったとしても、焼け石に水…。この世界の問題には、何の影響も及ぼさないだろう…。
でも、主イエス様は、語った。神の国を仰ぎ見て、愛の国を信じて。暗く、悲しい現実の中で、愛を見失った罪にまみれ、歪みきった私たちの中で、愛を語り、自らのいのちをささげて下さった。愛の印となり、自らを十字架につけて下さった。三日目によみがえって下さった。
イエス様は、今日も神の国を仰ぎ見て語られる。私たちの只中で、愛の国を信じて、語られる。「今日、ここに神の国が生まれ、広がって行く。あなたがたは知らないかも知れない。けれど、どんなに小さな種でも、あなたの小さな愛の中に神の国がある。それはやがて、この世界を覆い尽くすようになる。」
信じましょう。イエス様を。十字架について、三日目によみがえられた御方は、私たちの罪よりも大きく、力強い御方です。あなたの内に神の国を始められたのです。あなたから愛の国が始まっている。それは、やがて豊かな実を結び、収穫の喜びを迎える。
想像して下さい。あなたから愛の国が始まる。あなたの家が愛の国になる。あなたのコミュニティが、あなたの行く所が…。
あなたの愛は小さくない。あなたの親切は、世界を変える。
「神の国はこのようなもの。人が地に種を蒔くと、夜昼、寝たり起きたりしているうちに芽を出して育つ。どのようにしてそうなるのかその人は知らない。神の国はどのようにたとえよう。どんなたとえで説明できるか。それはからし種のようなもの。地に蒔かれる時、どんな種より小さい。けれど、成長してどんな野菜より大きく、枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作るほどになる。」
イエス様は今日、心を躍らせながら、あなたに神の国を語る。私たちの内に始まった愛の国を見つめ、たとえようもないいのちの神秘に深い感動を覚えながら。
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