ヨハネの福音6章1~15節「溢れる恵みを今日…」
昨日の食事、食卓のことを覚えているだろうか…。何を食べたか、どんな味がしたか。それは、何処から来たのか。普段口にする食べ物が、何処で、どのように作られ、生まれているかを知ると驚くことがたくさんある。そう簡単には、今、目の前に並び、私たちの口に運ばれることなどないからです。実に奇跡と呼んでも言い過ぎにはならないように、今、目の前に並ぶ…。この食べ物のために労苦する人、汗を流し、犠牲を払う人がいる…。
それは、まさに恵みと呼ぶのにふさわしい。代価を支払ったから当然の事だと言うのは余りにも不遜ではないかと思う…。私たちは、今日、恵みの上に生きている。恵みによって生かされ、支えられている。私たちが生きるため、知らない所で、誰かが労苦し、仕えている…。
父なる神様は、今日、私たちのいのちのことに心を配っている。私たちが生きることを望まれる。私たちよりも、私たちが生きることを望み、喜ばれるのは、創造主である神様。いのちの源である父…。
神様から遣わされた神の子、イエス様は、私たちの世界で、父の心を表し、生きて下さった。イエス様は、ご自分のもとに集まって来るおびただしい人々をご覧になり、そばにいる弟子に言われた。「どこから買って来て、この人たちに食べさせようか。」(5)イエス様が、集まって来た人たちの食事のことを心配なさった…。彼らの姿を見て、開口一番、「どうやって食べさせようか…」と。面白いことです。別にイエス様が心配するようなことではないのでは…と思う。イエス様も人が善いと言うのか、どうしてこんなこと言われたのか。イエス様は、心の内では何をしようか決めておられた。集まって来た人たちに食べさせてあげよう、腹を満たして上げようと思っていた…。
ピリポは言う。「今手持ちのお金では足りないでしょうね…」アンデレは、ひとりの少年を連れて来て、彼の持っている大麦のパン5つと2匹の魚を見せて、「これじゃぁね…」周りにいる者は困ってしまった…。男だけで5000人は居た…。
どうしてイエス様は、彼らに食事を用意したいと思われたのか…。イエス様の中では、当然のことだった。彼らに食事を用意してあげたい…。集まって来た彼らを喜ばれた。「もてなし」イエス様は、ご自分のもとに来た人たちを「もてなし」たいと思われた。イエス様は、「いのちの主」、イエス様の関心は、人のいのち、人が生きること。生きていることがとても大切で、嬉しかった。イエス様は、今目の前に居る者が、いのちを持って生きていることを大切にされる。「もてなし」とは、生きていることを大切にすること…。今、ここに居て、生きていることが尊いと祝福し、感謝すること。
人が食事をすると言うことは、感謝の行為、祝福を表し、味わうこと。「祝宴」と呼ぶにふさわしいこと。イエス様は、「祝宴」、「もてなしの祝宴」をもうけられた…。パンをとって感謝の祈りをささげ、祝福と共に分けて、人々に与えられた。魚も同じようにされた。大麦のパン、決して裕福なものではない…、むしろ貧しいパン。けれど主イエス様は、それを感謝し、祝福を込めて分けられた。すると不思議なことが起こった。どうにも説明がつかないことが…。5000人以上の人が皆、分けられたパンと魚を欲しいだけ受け取って食べた…。余ったパン切れが12人の弟子たちのカゴを一杯にした…。イエス様の「もてなし」は半端ない…。イエス様は、彼らに食事をさせて下さった。有り余るほどに…。
人々は驚き、イエス様を崇めた…「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」(14)と言って、イエス様を自分たちの王に据えようとした。こんな力を持った人がいたら、自分たちをローマの圧政から救い出してくれる。いろんな困難や貧しさから…。
イエス様が居たら、問題は全て解決する…。食糧問題は無くなる…。私たちは、そう思う…。イエス様が居たら…、居るなら、どうしてこんな問題が…。今なお、私たちの暮らしの中、この世界は、いろんな問題が解決出来ないままに苦しんでいる…。貧困、食糧問題…どうしてだろう…。イエス様は、何でも解決してくれるはずでは…。イエス様を王に据えたら…。
人々は群がり、イエス様を担ぎ上げようとした。しかし、イエス様は彼らをかわして、逃げてしまわれた…(15)。イエス様が逃げて行かれた…。これは、5000人を5つのパンと2匹の魚で満腹させたことよりも驚くこと。どうして、イエス様は逃げて行かれたのか…。どうして、人々の期待に応え、私たちの期待、要求に応えるために、王になって下さらなかったのか…。
イエス様は、私たちの期待する王になるつもりはなかった。人々の上に立ち、全てを支配する王、上から命令を下し、統治する王…、自分の思い通りにする支配者、この世を支配する王に対抗するような王になるつもりはなかった…。
支配する王でなく、仕える王…、食卓に仕える王。今日生きる私たちを支える王、最も卑しいとされる場所で働く王…。イエス様は、王宮でふんぞり返ることを望まない。むしろ、人々に仕える、日々の食事のために労苦する、感謝と祝福の祈りをささげる。そこにいのちを注ぐこと…。イエス様は、私たちに仕える王であることを示すために、奇跡を行われた。
イエス様の奇跡は、イエス様のいのちを分け与えること。イエス様は、奇跡を起こす毎に、ご自分のいのちを注がれた…。そう易々と奇跡を起こされない…。
イエス様は、今日、私たちの食事のために労苦し、いのちを注がれる。今日も喜んで私たちに仕えて下さる。備えられたパン、食事を感謝と祝福の内に分け与えて下さっている。私たちが、共に分かち合う時、それを溢れるばかりにし、有り余り、施すことが出来るようにされる。イエス様は今日、私たちの食卓に共に居る。私たちが日々囲む食卓は、主イエス様が仕えて下さる食卓。イエス様が王として仕えて下さる。イエス様は、あなたのいのち、あなたが生きることに関心がある。今日、あなたが生きるために仕えておられる。ご自分のいのちを分けて下さる。
イエス様は、パンと魚にご自分のいのちを込められた。そして、今日、備えられる日毎の糧、食卓にご自分のいのちを込められる。イエス様の恵みは、今日の食卓、明日のパンに溢れています。「わたしがいのちのパンです。」
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