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執筆者の写真じょ〜じ

イエスの風 No,42


 8月のこの時期は、平和について思い巡らします。私たちの国も大きな痛みを経験しました…。今も世界の何処かで、そして身近な場所で人が争い、いのちが傷つけられています。本当に憂うべき、悲しいことです。今日一日平和に暮らせますようにと願いつつも、この心が争いを求めてしまう現実に失望させられることもあります。けれど、それでも、私たちは希望を告白したいのです。神様は、痛みを担う者、悩む者、悲しみを知る者にこそ、その心に希望を与え、告白させて下さいます。

 主が共におられます。「あなたは、わたしの愛する子。わたしは、あなたを喜ぶ。わたしは、決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。安心して行きなさい。」 ヨハネの福音書6章24~35節「永遠のいのちのパン」

 神様は、私たちに永遠のいのちを与えて下さいます。一人残らず、それを与えようと、私たちが求めるよりも先に、ご自分の方から手を差し出しておられます。今日、神様は私たちを招いておられます。永遠のいのちで生きなさい…。神様は、あなたが永遠のいのちで生きることを望んでおられる。

 神様から遣わされた神の子イエス様は、彼の後を追って集まって来た人たちに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」(26)

 5000人を越える人たちが五つのパンと二匹の魚で満腹したのです(5~14)。だから、みんなイエス様を捜して集まって来たのです。けれどイエス様は、あまり喜んでおられないようです。「しるしを見たからではなく、満腹したから…」人々は、イエス様は、満腹させてくれる人だと思った…。けれどイエス様は、ご自分が神の子であることを明らかにしようとしておられた。人々が求め、味わったのは、満腹すること…。自分の必要が満たされること、問題が解決すること…。自分たちは、自分たちの欲求を満たし、満足させてくれる存在を見つけたと思った…。彼らにとって、イエス様がどのような方であるか…、それは大して重要ではなかった。イエス様が必要だったと言うよりは、パンが必要だった。パンをくれて、満腹させてくれるなら、誰でも良かった…。

 私たちには、パンが必要です…。日毎の糧、それを得るための道が必要です。生きるために…。パンがなければ生きて行けない。それを手に入れるために、お金がなくては…。でも、パンだけでは…。お金だけでは生きられない。私たちを生かしているのは誰か…。今日、わたしたちにいのちがあり、生きているのは誰によるのか。

 人が人として生きる…。人は、パンだけで生きているのではない。食べ物があれば生きて行けるのではない。腹が満たされればいいのではない。満腹していればいいのではない…。それだけでは、虚しい、魂が満たされない。心は渇く…。人が人ではなくなる…。人には、別のいのちがある。パンだけではどうにもならないいのち、満腹するだけでは…。人は、人にはならない…。神様に似せて造られた神のかたち、神の子として生きることが出来ない。

 イエス様が、言われた…。「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。」(27)

 「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい…」イエス様は、おっしゃつた。「永遠のいのちのために生きよ…」「永遠のいのち」それは、神様のいのち、神の子イエス様の内に在るいのち。人が人として生きるためになくてはならないいのち…。

 私たちは、「永遠のいのち」とは何かと問う…。それは何か。永遠に生きながらえるいのちか。不老不死か…。イエス様は、永遠のいのちに生きた。イエス様は、永遠のいのちそのものだと、この福音書を記したヨハネが言った…。イエス様を見れば、永遠のいのちが分かる。それは、死を打ち破った復活のいのち。私たちは、死で終わることのないいのちを持つ。「永遠のいのち」それは、何度でも生き直すことが出来るいのち。何度失敗し、罪を犯しても、やり直すことが出来る。新しく挑戦することが出来る。倒れても立ち上がり、赦され、きよくされ、生きることが出来る。「永遠のいのち」それは、尽きないいのち。ささげても、ささげても尽きることなく、枯れることのないいのち。「永遠のいのち」それは、神のかたちに創造された、神の子として生きること。人としての尊厳を持って生きること…。「永遠のいのち」イエス様は、永遠のいのちに生きた。イエス様は、「永遠のいのち」。イエス様は、人々に仕え、ささげ尽くした。それでも、その愛は尽きることがなく、泉のように溢れ出した…。「永遠のいのち」それは、「愛」。イエス様の内に溢れていたのは、「愛」。尽きることのない「愛」。

 「永遠のいのち」は、私たちを満腹にするいのちなのか…。「永遠のいのち」は、私たちをして誰かを祝福し、満たすいのち。「愛するいのち」イエス様は、私たちに尽きぬ愛を注ぎ、互いに愛し合うことが出来るようにする。この世界を変えようとしている。「世にいのちを与え」ようとしている(33)。この世界に、主イエス様の愛があれば…、私たちが主イエス様の愛に生き抜くなら…。この世界は、いのちを取り戻す。いのちが溢れる。神の国になる…。

 天地を創造された神様は、神の子イエス様は、「永遠のいのち」を与えようとしておられる…。食べて満腹したらなくなってしまうパンではなく、「永遠のいのち」を、この世界に、そこに生きる人に与えたいのです。「神を遣わした者を信じること、それが神のわざです。」(29)主イエス様を信じなさい。イエス様は今日、あなたに永遠のいのちをお与えになる。私たちを「永遠のいのち」に生かすことが出来る。

 「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(35)

 今日、イエス様は、あなたを招いておられる。「永遠のいのち」を与えようと、手を差し出しておられる。イエス様は、あなたに「永遠のいのち」、ご自分のいのちを与えるため、十字架にいのちをささげ、死んでよみがえって下さった。イエス様は、生きておられる。今日、あなたに永遠のいのちをお与えになる。溢れるばかりの愛を注ぎ、あなたを神様の愛、イエス様の愛に生かして下さる。イエス様を信じなさい。イエス様のもとに来なさい。イエス様が「いのちのパン」、「永遠のいのち」

 イエス様がいなければ、イエス様の御許にいなければ、どんなに満腹しても、有り余る程のパンを手に入れても、その魂は飢え、渇く…。あなたは、「永遠のいのちのパン」に飢え、渇く…。イエス様があなたの前に立って、呼んでいる…。

 「神のわざを行う人」、イエス様を信じているあなた。イエス様に身を寄せるあなたは、「永遠のいのち」に生きる人だ…。あなたのうちに「永遠のいのち」がある。あなたは、永遠のいのちに生きている。今日、イエス様が、「永遠のいのちのパン」となって、あなたのうちに生きておられるのです。

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