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執筆者の写真じょ〜じ

イエスの風 No,44

更新日:2019年12月8日


 お変わりありませんか。最近、友人たちが出演するGospelのライブに出かけました。Gospelは、大人数で集まって歌います。その歌声には迫力があります。人が集まるとすごいんだって思います。色んな人たちが集まっています。それぞれに、様々な人生を歩んでいます。時に苦しいことがあります。でも、一緒に歩いてくれる仲間が居てくれることは、本当に大きな力です。慰めです。私は、そうやって人が集まる所、慰めや励ましがある所には、イエス様がおられるのだと信じます。イエス様は、私たちを集め、共に歩ませることで、それぞれの人生を生きることが出来るようにして下さっているのだと。

 私の人生を共に歩んでくれる全ての友、仲間に感謝したいと思います。ありがとう。


主イエス・キリストの恵みがあなたの上にあります。主はこう言われます。「あなたは、わたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。安心して行きなさい。」あなたは、祝福された人です。


マルコの福音書9章38~50節「互いに平和に過ごしなさい」


「互いに平和に過ごしなさい」 平和、ほんとに難しいことです…。そもそも、平和とは何でしょうか。私たちは、日々、平和を願い、求めて暮らしています。私たちの日々は、あまり平和ではないのです。どこかで争い事があり、叫び声が聞こえ、心がかき乱されます。どうして、私たちは争ってしまうのでしょうか…。自分の正しさに拘り、自分の仲間ではない者と敵対し、排除しようとしてしまうのでしょう。

 もっとわだかまりなく、お互いに受け入れ、過ごすことが出来ないのでしょうか。自分の仲間か否かと言う壁を作るのを止めて…。どうも私たちの心の中には、どう言う訳か、そのように人を分け隔てしようとする何かが働くようです…。それを好み、楽しんでいるかのようなこと。そのようにして自分を保ってるようなことがある…。敵の存在が、自分たちの存在意義を生み出し、強めていると言うことがある。共通の敵を見つけると、人は急速に、そして強力に結束するのです…。

 平和、それは敵を見つけて、排除し、滅ぼしてしまうことだと考えてしまいます。敵を滅ぼせば平和になるのでしょうか…。

 自分と意見の合わない人、そりの合わない人が居なくなれば、私たちの日々は平和になるのでだろうか。自分と違う意見の人が変えられて、自分と同意見になれば、仲間になれば、平和なのでしょうか…。

 平和、それは神の世界、神の国に生きると言うこと。自分という小さく、狭い枠から解放されて…。私たちは、本当にちっぽけです。狭い世界に生きている。私たちの心は狭い…。この広い世界を、小さく切り分けて、せまい囲いの中に閉じこもって、何事も起こらず、波風立たずに暮らすことが平和だと思い込んでいる…。

 でも、神様と出会う、イエス様と出会うときに、私たちの小さな世界は壊される。大きく拡げられて行く。イエス様は、私たちの常識を遙かに超え、それを覆す。イエス様は、本当に大きな方、その心は広く、計り知れない…。

「ヨハネがイエスに言った。『先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。』しかし、イエスは言われた。「やめさせてはいけません。わたしの名を唱えて力あるわざを行い、そのすぐ後に、わたしを悪く言える人はいません。わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。まことに、あなたがたに言います。あなたがたがキリストに属する者だということで、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません。』」(38〜41)

イエス様の願いは、排除することではなく、壁を作ることではなく、仲間を作ること、人をご自分の懐に招くこと。ご自分の大きく広い御手、寛容と愛の中に包み込むこと…。イエス様は、あなたを招いている。ご自分の懐の内に。神の国、寛容に満ちた広い世界に招いている。ひとり残らず、神の国に生きるようにと、その両手を一杯に広げている。

 平和、それは、神の国に生きること。広い世界、寛容に満ちた世界に生きること。この神の造られた世界を見る時、平和とは何かが見えるのではないか…。自然とよばれる被造物、多種多様のものが互いに関わり、生かし、支え合いながら存在している。互いに滅ぼし合うことなく…。いのちを分かち合いながら生きている。平和、それは互いに生かし合うこと、いのちを分かち合うこと。違いを認め、存在することを認めること。喜ぶこと…。

「つまずき」…。イエス様は、人をつまずかせるものを嫌われた。「つまずき」は、人を滅ぼしてしまう。「つまずき」あなたを生かし、支えて下さる神様から引き離してしまうこと…。「つまずき」神様から離れてしまう…。イエス様は、私たちの中から、「つまずき」を取り除くように言われる。その言葉は、余りに激しく、聴く者を驚かせる(42〜47)。「つまずき」は、取り除かなければならない…。私たちの周りに、私自身の中に、「つまずき」は至る処にある。私たちをいのちの源である神様から引き離してしまおうと、神様を忘れさせしまおうと…。「つまずき」は、取り除かなければならないとイエス様は言われる。イエス様は、あなたがつまずくことに耐えられない…。誰かがつまずくことは、耐え難い苦しみ。

 自分も、人も、つまずかせるものは、取り除かなければならない。神様から離れて生きる、いのち、愛と恵みの源泉である方を忘れて生きることは、滅び、燃えるゲヘナで焼かれてしまうこと…。

 私たちは、自分の中に「つまずき」があることを知っている…。いとも簡単に人をつまずかせ、自分自身をつまずかせる。イエス様は、私たちを知っている。「つまずき」を与える者を焼き尽くすゲヘナの炎のことを聞いて震え上がる私たちを…。私たちの中に「つまずき」があるのを知っている。

「つまずき」を取り除く…。イエス様は、十字架につかれた。自らを「つまずき」として、ゲヘナの炎に身をおかれた。私たちの手、足、目、口、「つまずき」となる全てのものとなった。イエス様の御苦しみ、十字架で死は、ゲヘナの炎に身を包む滅び…。イエス様は、私たちの罪となって死んで下さった。そして、よみがえられた。イエス様が、私たちの「つまずき」を取り除いて下さる。

 「人はみな、火によって塩気をつけられます。塩はよいものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょうか。あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。」(49、50)

 イエス様は、火。私たちに塩気をつける火。塩は、私たちにいのちをもたらすもの。人は、塩がなければ生きられない。塩は、良いもの。私たちにもたらされる恵み。私たちのつまずきの手、足、目となって十字架につかれた姿は、私たちにいのちをもたらす恵みの塩。

「あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち、互いに平和に過ごしなさい。」

 イエス様が、私たちの平和となって下さった。私のために十字架につき、よみがえられたお方の姿は、恵みの塩。イエス様は、あなたの塩となって下さった。イエス様が、私たちの平和となって下さいました。今日、イエス様は、私たちの内にお立ちになり、十字架につかれたお姿を私たちに示して下さっています。

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