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執筆者の写真じょ〜じ

イエスの風 No,50

更新日:2019年12月7日


 先週、先輩の牧師の勧められ、東京都美術館で行われているムンク展を観ました。有名な「叫び」には人集りが出来ていました。病、死…、様々な苦しみ、人の内側にある暗い部分を見つめ、描き出す彼の作品が並ぶ空間に身を置き、色んな事を考えました。人生には色々起こります。いつも明るく楽しい訳ではありません。悩みがあり苦しみがある…。それを見ず、無いことにして生きることは出来ません。でも、それを直視したり、真っ向から向き合うことは、そう簡単に、誰にでも出来ることではありません。どうして彼が、そのような作品を描いて来たのか…。叫び、絶望…。彼の魂の深いところにある動機を計り知ることは出来ません。けれど、彼をそこに向かわせた存在が居ることを感じました。そのような苦しみの現実のただ中に居て、そこから逃げること無く立ち続けて居る方が…。人のあらゆる苦しみを背負われ、十字架につかれたお方が…。

 どうか、今週、もしかしたら辛い中を通らなければならないかも知れません…。でも、あなたの苦しみを知っている方が居る。あなたの苦しみの中に、共に身を置いて下さる方が、あなたを支えて下さいますように。

 「あなたは、わたしの愛する子。わたしは、あなたを喜ぶ。わたしは決して、あなたを離れず、また、あなたを捨てない。安心して行きなさい。」


ヨハネによる福音15章9節「わたしの愛に包まれて常に生きなさい」


 新しい一年が始まりました。新鮮な気持ちがします…。旧い一年の色んな事が過ぎ去って、全てがリセットされたような気がするのです。でも、それは、気のせいではありません…。季節は一巡りするのです。日の光は、新しい輝きを見せ、短くなった日は、再び、徐々に長くなり始めています。冬枯れた木々は、新しい春の備えを始めている…。神様は、新しいことを始めて下さっている。そう、あなたに再び新しい出発をさせようとして、あなたを、ご自分の御許に招いておられる…。


 神様は、私たちをご自分の御許に招かれる。私たちは、今日、招かれてここに居る。あなたは、神様に呼ばれて、ここに居る。神様は、今、あなたに語り、あなたに何かをしようとしておられる。あなたの心に思いを起こし、何かを始めようとしている。いや、もうすでに始めておられる…。私たちは、それに気付いていない。気付くことが出来ない…。私の人生に新しいことが起こるなどと信じられない、そんな時に、神様は、冬枯れした新春の木々に新しいつぼみが芽吹き始めているように、密かに、あなたの人生にご自分の計画を始め、進めているのです。

 今日、新しい神様の語りかけがある。あなたには、聞く用意があるだろうか…。新しい御業を始められる。あなたには、受け入れる準備があるだろうか。


 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。〜父がわたしを愛してこられたように、わたしもあなたたちを愛してきた。わたしの愛に包まれて常に生きなさい。」(新改訳2017〜フランシスコ会訳)


 イエス様は、いつも私たちに新しいチャレンジをなさいます。彼のチャレンジは、文字通り挑戦です。簡単に出来ることをおっしゃらない…。難しいことを言われる。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。」

 「わたしの愛にとどまれ」「わたしの愛に包まれて常に生きなさい」イエス様は、私たちに向かって、愛される者として、その愛を味わいつつ生きるように言われる…。イエス様に愛される者として、イエス様に愛されて生きる…、これほど難しいことはない…。

 私たちは、愛されることに憧れます。愛されていることを味わって生きたいと願う。魂、心の深いところで、いつも飢え渇いている…。愛されることを求め、愛してくれる人を求めてさまよっている。それを探し続け、たくさん傷ついて、諦めてしまっている。飢え渇いている自分を誤魔化している…。

 愛されていることを知る、それを味わって生きることほど難しいことはない…。なぜなら、そうじゃないことが沢山あるから…。そう思わせない出来事が、私たちの人生に沢山起こる。愛されていることを忘れさせる声が響いている。そんな中で、私たちは、いっぱい傷ついて来た…。傷つけて来た…。

 ここ最近の歩みを振り返ってみて、「私は愛されているなぁ…」と心温かにしたことはどのくらいあっただろう…。愛されていることを実感し、幸せだと感じたのはいつだったのだろう。そんな愛を分かち合って、心躍らせたのは…。

「わたしの愛にどとまれ」イエス様の愛に留まる、イエス様の愛を味わって生きる…。これほど難しいことはない…。


 愛は、不思議。これが愛です…、今、目の前に差し出すことが出来れば簡単ですが…。愛は目に見えない…。神様をこの目で見ることが難しいのと同じくらい、愛をこの目で見ることは難しい…。

 愛は、信じるもの…。目で見て、確かめるものではなく、信じるもの。信じて、気づくもの…。愛は、今、ここに在る。昨日も、今日も、明日も、変わらずに在る…。すでに、あなたのすぐそばに在る…。愛は、信じるもの。在ると信じるもの。私たちは、いつも迫られている。二つのうち、どちらを信じるのか…「愛はある」か「愛はない」あなたは、どちらを信じているのか。

「わたしの愛にとどまれ」イエス様は、私たちに迫る。愛を信じるように。「愛はある」と信じなさい。けれど、私たちは罪人…。愛を信じることが出来ない。愛が分からない…。だから、私たちはもがく、苦しむ、互いに傷つける…、そして、ますます愛が分からなくなり、愛に失望する。期待しなくなる…。私たちは、罪人です。

 だからイエス様は、言われる。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛した。わたしの愛にとどまれ。」イエス様は、「わたしはあなたがたを愛した」と言われる。言い切ってしまわれる…。しかし、私たちは、イエス様に問う。「あなたは、私を、いつ、どのように愛されたのですか…」そう、イエス様に問うことは大切です…。イエス様に食ってかかるのです。真剣に問うのです…。「イエス様。あなたは、私をいつ、どのように愛されたのですか…」

 これが分からなければ、私たちは、一歩も前に進むことが出来ない…。愛が分からない。愛することが出来ない…。喜びは生まれない。平安はない。虚しさで、心が渇ききってしまう…。私たちは、神様を見失い、愛に飢え渇く罪人のままです…。


 「イエス様。あなたは、私をいつ、どのように愛されたのですか…」そのように問う時、私たちは、イエス様の懐飛び込むのです。「イエス様。あなたは、本当に私を愛して下さっているのですか…」そう言う時、イエス様は、あなたを大きな腕の中に包み込んで下さいます。

 イエス様に問いかけなさい。もっとイエス様に、愛に飢え渇いて…。イエス様は、あなたの魂が、愛に目覚めるように願っておられる。罪に覆われ、死にかけている心、愛に鈍くなってしまった魂が目覚め、生き返るように願っている。

 あなたを生き返らせるために、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛した。わたしの愛にとどまれ。」と言って、十字架で死んで、よみがえって下さった。

 だから、問いなさい。イエス様に向かって。イエス様の懐に飛び込みなさい。祈りなさい。イエス様の名前を呼びなさい。


 「イエス様。あなたは、私をいつ、どのように愛されたのですか。イエス様。あなたは、本当に私を愛して下さっているのですか。」

 イエス様は、あなたを腕に包み込んで、答えて下さいます。その声を聞くまで、そこに留まっていなさい。 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛した。わたしの愛の中にとどまれ。」

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