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執筆者の写真じょ〜じ

イエスの風 No,51

更新日:2019年12月7日


 先週は、富士の裾野にある修道院に4日間籠もっていました。説教を学ぶ仲間たちと共に、聖書を読み、黙想し、語り合い、説教の準備をしました。働く場所、年齢、性格…、全く違う者たちが、同じ志をもって研鑽を積む日々、互いの間に不思議な連帯感を味わいました。心が熱くなりました。今でも振り返ると、心が再び熱くなります。

 イエス様が復活された日、二人の弟子たちとお会いになった時、二人の弟子たちは、イエス様と語り合う中、心が燃えるのを経験しました。

「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」(ルカ24:32)

 私たちが心を熱くする時、心が燃やされる時、イエス様が居られる。あの時、富士の裾野に集まる私たちにも、イエス様が語りかけて下さったのだと信じます。

 イエス様があなたと共に居られます。あなたの心に感動や喜びを与えて下さいます。あなたが愛に心震わせ、燃やされる時、あなたのために死んでよみがえって下さったイエス様を想い起こして下さい。

 主はこう言われます。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。安心して行きなさい。」

 

ルカによる福音4章15〜22節「歓迎されないキリスト」


 信仰を持つことは、難しいこと…。それは、私たちが神の前にひざまずき、神に自分をささげること。自分だけで生きるのをやめて、神と共に生きることだから…。信仰を持って生きると言うことは、自分の願い通りに生きることと違い、神と共に平和に暮らすこと。

 私たちは、誰かと共に居ることを欲しながら、その煩わしさに悩まされている。一日を振り返ると、その日出会った人たちとの関係の中で一喜一憂して過ごしていることに気付く…。日々、表には現れないかも知れないが、誰かと争い、闘っている…。人は、本当に複雑な生き物だと思う。自分自身も含めて、人と向き合い、理解すること、共に生きることは至難の業…。

 私たちは、共に生きることを必要としている。けれど、共に生きることに問題を抱えている…。

 「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人には視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。〜この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」(18,19,21)

 イエス様がおっしゃった。ご自分の故郷で話された。「今日、聖書の言葉が、実現した。主の恵みの年、救い、安息、解放、平和、神の国が始まった…」イエス様は、人々の前で、ハッキリと神の恵みを宣言した。集まった人たちは、その言葉を聞いて、驚いた、喜んだ…。でも、同時に沸々と疑問がわいてきた…。「この人はヨセフの子ではないか。」(22)宣言された言葉は素晴らしい…、けれど、それを語っているのは…。自分たちが昔から知っている近所の男…。彼が、まるでキリストであるかのように、自分たちの王のように、自分から救いが始まると、恵みを宣言している。どうやら、自分に従えと言っている…。

 イエス様は、彼らの抵抗を感じ取った…。

「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うに違いない。〜よく言っておく。預言者は、自分の郷里では歓迎されないものだ。確かに言っておく、エリヤの時代に三年六ヶ月の間、雨が降らず、全地に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたのに、エリヤはその中の誰のもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタにいるやもめのもとに遣わされた。また、預言者エリシャの時には、イスラエルには規定の病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンだけが清められた。」

(23〜27)

 人は、簡単に神の言うことを受け入れない…。謙って、幼子のように、神の御手に自分を委ねようとしない。人々は、神を信じると言いながらも、それは神の前にひざまづき生きるのではなく、神を自分の都合で振り回し、従わせようとしているだけだ…。

 私たちが神を信じると言う時、それは何を意味するのだろう…。神とは誰か…。私たちは、自分に都合の良いことをしてくれ、自分の言いなりになってくれる者を神と呼ぼうとする…。そうでなければ、気に入らないと牙をむく…。穏やかに、そして密かに、神を無き者にしようとする。私たちの中には、退っ引きならないものが存在している…。

 人々は憤慨した。イエス様の言葉に怒り狂った…。総立ちでイエス様を町の外に追い出し、町外れの崖から突き落とそうとした…。殺そうとした。驚くことに、イエス様は、人々の前に出て、福音を宣言する活動を始めた時から十字架の危機、いのちの危険と隣り合わせだった…。イエス様は、毎日いのちがけで福音を宣べ伝えておられた。

 イエス様は、私たちの中にあるものを知っている…。イエス様にとって、私たちと共に居ることは、喜びであると同時に、いのちの危険を感じること。私たちは、イエス様に激しく抵抗し、いや抵抗する方がまだいい…。イエス様を無き者にしてしまうことがある。イエス様を黙らせようと、もう二度と私たちの人生に関わらせまいとする…。罪とは、神に逆らうこと、自分の欲望に従い、イエス様を黙らせ、無き者にしようとすること。私たちは、イエス様のことを喜び、崇めながら、同時に彼を蔑み、抵抗する…。

 人々は憤って、イエス様を殺そうとした…。けれどイエス様は、その間を通り抜けて行かれた。イエス様は、人々の罪に負けて、捕らえられ、殺されてしまうような方ではない。罪の支配に捕らえられ、服従なさる方ではない。イエス様は、神の子、キリスト、救い主…。人々の罪を滅ぼしてしまうために、自ら十字架につき、よみがえられた。イエス様の十字架と復活は、私たちの罪よりも遙かに勝り、力がある。

 イエス様は、私たちを救うために来られた。解放し、自由にするため。神と共に生きる者にするために…。死んで、よみがえって下さった。

 今日、イエス様は、私たちを訪ねて下さる。キリストを歓迎しない私たち、自分の都合の良い者を神として崇める私たち。己を神とする偶像崇拝者…。キリストを無き者にしようとする私たちを。イエス様は、共に居て下さる。

 イエス様は、今日、私たちを救って下さいます。私たちを罪から解放して下さる。私たちの中から罪を取り除いて下さる。イエス様は、私たちの罪よりも遙かに大きい方。罪に打ち勝たれた唯一のお方。

 イエス様に身を任せなさい。身を低くして、そのまま彼の懐に飛び込みなさい。祈りなさい。「神様。罪人の私をあわれんで下さい。」

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