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執筆者の写真じょ〜じ

イエスの風 No,55

 愛されていることを信じることは、本当に難しい…。それは、愛されていないのではなく、愛されていることを発見し、受け入れることが出来ないからです。私たちへの愛は、大袈裟にではなく、密かに、ひっそりと添えられているのです。何気なく見過ごしてしまう景色の中に。身近に居る人たちの眼差しや、言葉、労苦の中に隠れています。

 今、至る処に春の訪れが目に見えるようになって来ました。でも、それは突然始まったのではなく、もう何ヶ月も前から、誰も気付かない中で少しずつ始まっていたのです。神様の御業は、毎日新しく始められています。神様は、私たちを驚かせ、喜ばせようと、密かに進めておられるのです。

 今日も、明日も、愛の光があなたを照らしています。「あなたは、わたしの愛する子。わたしは、あなたを喜ぶ。わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。安心して行きなさい。」



ルカによる福音13章1〜9節「実がならないイチジクのために」


 父なる神が今日、私たちを愛している…。この言葉をもって、また一日を始めなければなりません。毎日、私たちは、この言葉をもって一日を始め、一日を終えなければならないのです。信仰は、この愛を受け取るためにある。父は、私たちがこの愛を受け取るためにと、私たちに信仰をお与えになるのです。

 けれど、この愛を信じ、受け取ることが何と難しいことだろう…。本当に神が私たちを愛しておられるのだろうかと疑いたくなるような事が、時に私たちを襲うのです。大きな災い、苦しみが起こり、困難が続き…。私たちの心は呟き始める…。どうして私ばかりがこんな苦しみを抱えなければならないのだろう。あの人に、困難がつきものなのは何故だろう…。何か悪いことをしたのだろうか。きっと、何かが原因に違いない、過去の失敗や過ち…。神様が、罪を責めておられるに違いない。一体、いつ問題を起こしてしまったのだろうか…。などと、答えの出ない問いの迷路をさ迷い始めるのです。


 神のさばきの話を聞かされることは、私たちにとって心地よいことではない。当然、耳を塞ぎたくなる…。それをなかったことにしたい。神は罪をさばかれると言うことなど聞きたくない。それを聞けば、居ても立ってもいられなくなる…。心に責められることがある。神の前に、平然と自ら潔白だと言うことなど出来ない。その光に照らされれば、覆い隠したくなるような恥ずかしい罪の数々が見えて来る。


 イエス様が厳しい話をしておられた…。人々の罪の現実の中、神から遠く離れている中、それを責めておられた。神が罪をさばかれることを話された…。イエス様は、罪がさばかれることを語る。その厳しさを語る…。イエス様が、全ての人の罪のさばきをその身に引き受けて死のうとしておられたから。他の誰よりも、罪の現実の厳しさを感じておられた…。イエス様に、死が迫っていた。多くの人の、全ての人の罪のために十字架について死ななければならない時が迫っていた。いよいよ、その死の現実が間近に迫っていることを感じておられた。宗教家たちの反目が激しくなって、身の危険を感じていた。ご自分が、これらの罪の故に死ななければならないことを悟り、神に立ち返ること、和解を迫っておられた(9:18~)。


 神のさばきの厳しさが語られる時、人は自分の身のまわりに起こる悲惨を想い起こす…。イエス様にガリラヤの同胞に起こった悲惨な出来事が報告された(1)。人々は、これも神のさばきだろうか…と考えた。けれど、イエス様は、答えた。

「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのすべてのガリラヤ人とは違って、罪人だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。…」(2~5)


 イエス様は、今起こる災いや困難が、その人の罪の結果引き起こされた、神のさばきであることを否定された…。因果応報、罪深い者が厳しいさばきを受け、災いに遭う…。そのような幼稚な信仰、考え方が、私たちの心の深いところに染みついている…。それこそ、私たちが罪人であり、神から遠く離れていることを証しするものだと言えるかも知れない。私たちは、あまりにも神の愛を知らない…。神の愛の現実が見えなくなっている…。神に対する知識、理解が幼稚で、無知、盲目になっている。罪とは、神に対する無知であり、盲目、神を知らず、神の愛を知らない現実のこと。神から離れてしまっていること…。罪人である私たちは、神に対する無知の故に、いつもこう言ってしまう。「この世に起こる悲惨は、神のさばき、神がその人の罪をさばいておられる…。」そして、苦しみに苦しみを加え、神を見失ってしまう…。神を見失うこと、神の愛を疑うこと、これこそ滅び。滅びとは、神から離れ切ってしまうこと。


 「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる…」

 イエス様は、悔い改めを求めておられる。イエス様は、私たちに悔い改めを訴える…。悔い改めとは何か。向きを変える。歩む方向を転換する。それは、父の神の愛に立ち返ること。父の神の懐に帰ること。父なる神の愛に目覚め、神の子と呼ばれて生きること。父が私たちに悔い改めを求めておられると、イエス様は言われる。「父の許に帰って来なさい!!」と言われる。

 そして、不思議なたとえを話された(6~9)。ぶどう園に植えられ、実を結ばないイチジクの木…。どう言う訳か、ぶどう園に植えられ、3年も実を結ばないイチジクの木、主人はその木を切ってしまえと言う…。けれど、ぶどう園の世話をする園丁は言う。「ご主人様、今年もそのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。もし来年実を結べばよし、それで駄目なら、切り倒してください。」(8、9)


 ぶどう園の主人も園丁も、何をやっているのだろうか…。ぶどう園にぶどうではなく、イチジクの木を植え、実を結ぶ、結ばないと言っている。一生懸命に世話をし、何とか実を結ばせることを願う…。無意味で、無駄な努力のように思える…。さっさと切り倒してしまえばいいのに。ぶどう園に植えられた、一向に実を結ばないイチジクの木を慈しみ、惜しむ主人と園丁…。


 イエス様は、何をたとえて表現しようとしたのだろうか…。神の愛、さばきと忍耐。神は、簡単に人をさばかない…。父なる神は、気難しく、怒りっぽい親、主人や上司のように、すぐに災いを下し、滅ぼしてしまうような方ではない。愛故に、忍耐の限りを尽くし、いのちをかけて待つ。立ち返るように呼びかける。


 そして、神の御子、イエス様は、私たちと父の間に立って執り成しておられる。私たちは、実のならないイチジクの木。しかし、イエス様は、実のならないイチジクを愛しておられ、心を尽くして世話をなさる。何とか実を結び、切り倒されないようにと…。今日、私たちが生きているのは、イエス様の執り成しの故。今日も、イエス様の執り成しの声が響いている…。

「ご主人様、今年もそのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。もし来年実を結べばよし、それで駄目なら、切り倒してください。」


 イエス様は、私たちが実を結ぶようにと、死んでよみがえって下さった。その実は、悔い改め。父の愛に立ち返ること。父の懐に憩い、豊かな愛を生きること。イエス様は、今日も実を結ぶように、ご自分のいのちを注いで下さっている。

 災いに心を奪われ、父の愛を見失うことがないように、豊かな実を結ぶようにと祈ります。

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