実りの秋、美味しいものが沢山在ります。スーパーに出かけて、果物売り場を見るのが好きです。紅い林檎、橙の柿、紫の葡萄…。目も、お腹も、心も愉しませてくれます。収穫は、私たちが生きていることを喜ぶ、神様からの祝福のメッセージ。食べることは、神様の愛、祝福を味わうことなのです。今日、あなたの食卓に祝福がありますように。
ルカによる福音20章27~38節「神にとって、すべての者が生きている」
今日、あなたが生きて居ることは、大きな喜び。恵みと呼ぶに相応しいこと。神がそれを望まれた。神は、いのち…。神は生きて居る。神は、ご自分のことを「わたしは、在る(居る)」と言われた。今、ここに居る。生きて居る。永遠に生きる方。神は、いのちの源、いのちを司る方、いのちを与え、生かす…。私たちよりも、熱心に、今日もお働きになっている。私たちよりも、私たちが生きることに関心を持ち、生きる全ての営みに関わっている。だから、神は、今ここにあなたが生きて居ることを大いに喜んでおられる…。そればかりか、私たちの思いを超え、死を越えたいのち、死んだ後に復活させ、永遠のいのちに生かすことを約束して下さった。私たちは今、自らのいのちの中に神の御業、御心を見出すことが出来る。今、私の中に、神はお働きになる。私たちの中には、復活の約束の声が響き、永遠のいのちの種が蒔かれているのです。
主イエスは言われた。「この世の子らは、めとったり嫁いだりするが、次の世に入るのにふさわしく、死んだ者の中から復活するのにふさわしいと認められた人たちは、めとることも嫁ぐこともない。彼らが死ぬことは、もうあり得ないからだ。彼らは御使いのようであり、復活の子として神の子なのだ。」(34~36)神の国は、生きること、いのちの喜び。信仰とは、生きること。今日、ここに在るいのち、私のいのち、あなたのいのちを、神に感謝し、味わい、生きること…。
しかし、「死んだら終わり…今を生きて居ることに何の意味があるのか。」全てが虚しく終わってしまうように思える。苦しいだけの日々を味わい、「どうして生き続けなければならないのか。」生きることを拒む声、復活を信じない理由は、いくらでもある。私たちは、そんな声に囲まれて生きている。
復活…それは、どんなに議論し、説明しようとしても分からない。私たちは、時に虚しい議論に身を委ね、自分の正義に溺れ、いのちを見失う…。神を見失い、感謝、喜び、愛することを忘れる…。復活は、分かる、分からないを超えた世界。主イエスは言われた、「次の世」…。新しい世界、神がお始めになる神の国のこと。復活は、私たちが信じるべき救い。主イエスは、復活を分かれと言わない。どんなに論じても分からない、だから「信じない…」と言う人たちに、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神。神にとっては、すべての者が生きている。」(38)と言った。
主イエスは、「神を信じていなさい。」と言う。「神があなたを復活させるのだ。あなたが復活するのではない。あなたのいのちを神に委ねて生きよ。明日を煩うのを止めて、今日を精一杯生きよ。今あるいのちを使い果たすように生きなさい。喜んで、惜しみなく、愛にささげなさい。」教会には、復活の約束をして下さる神を信じて生き、死んだ人たちが居る…。その人たちに向かって響く主イエスの声が聞こえる。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神。神にとっては、すべての者が生きている。」
主イエスは、私たちの先頭に立って復活を生きた。復活の故、ご自分のいのちを献げて下さった。十字架の死は、復活を生きた証し。復活は、愛。生きる者にいのちを与え、喜ぶ神の愛の証し。愛故に、神は今日、喜んであなたに復活を約束し、そのいのちに生かして下さる。あなたも今日、主イエスのように、復活のいのちに生きるのです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神。神にとっては、すべての者が生きている。」
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