12月7日、無事に誕生日を迎えることが出来ました。朝、アルバイト先の幼稚園の子どもが、銀杏の葉っぱを手渡してくれました。朝一番、誕生日プレゼントだと思い、感謝しました。そして今日は、贈り物について思いを巡らせていました。贈り物をもらうことは、嬉しいことです。子どもの頃、誕生日やクリスマス、どんな贈り物が届くかと、心を躍らせたものです。散歩しながら、神様が私に贈り物を下さっている…と言うことに気付かされました。その贈り物は、私自身…。「神様は、私に、私と言う人、人生を生きるようにと、私自身を賜物として下さった…」そう思ったのです。不思議なことを言っていると思われてしまうかも知れませんが…。私の内に備わった性質、人格、重ねて来た人生、才能…など。この世にいのち与えられ、今に至るまで、私が味わっている私自身が、神様からの贈り物…。私を、そして世界を祝福するために用意された賜物。だから、もっと大切にしなさい…と言われているように思いました。
今週も自分と隣人を大切に、互いに祝福を語りあって過ごせますように。
マルコ福音書1章1~8節・イザヤ40章1~11節「福音のはじめ…」
「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」(1)
塚本虎二と言う人は、この福音書の最初の言葉をこう訳した。「イエス・キリストの福音はこうして始まった」(塚本虎二訳マルコ1:1)。
この福音書を記した者は、これを読む人々に、新しい物語、福音の物語が始まったことを告げる。この物語を聴く者たちの目を開き、新しく始まった福音の物語の中に生きて居ることに気付かせようと…。「あなたに新しい福音の物語が始まった。あなたは、福音の物語の中に居る…」
人生に苦しいことがある。悲しいことが続く…。たとえ、私自身に降りかかっていなくても、この世界中に未だ解決出来ない様々な問題があり、人を苦しめ、傷つけ、滅ぼそうとしている…。真面目に、真正面からそれを見ようとすれば、私たちは、絶望の暗闇に呑み込まれ、失望の淵に沈み込んでしまう。「一体、何処に福音の物語が始まっているのだろう…」福音の物語のしるしを探す…。希望の光を探す…。「一体、何処に福音の物語が始まっているのだろう…」
「預言者イザヤの書にこのように書かれている。『見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。荒野で叫ぶ者の声がする。“主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。”』その通りに、バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた…」(2-8)
福音の物語が告げる。主の使いが遣わされ、主の通られる道が備えられた。そして、救い主が来られた…。救い主が来られた。今、ここに、私たちが生きる只中に、主イエスが来られた。主イエスが、今、ここに来て、私たちをその懐に抱き、慰め、養い、導いて下さっている(イザヤ40:10,11)。私たちの日々に、苦しみの只中に、悲しみの傍らに座り、死の淵にまで降りて行き…。私たちのために十字架につき、死んでよみがえって下さった。主イエスは、私たちと共に居る。世の終わりまで…、この世界が新しくなるその日、復活の朝を迎えるその日まで、私たちの生き死にを懐に治めて下さる。「イエス・キリストの福音はこうして始まった」
この福音書は宣言する。「主イエスこそが福音…」主イエスは、備えられた道を通って、私たちの人生のただ中に来られた。私たちの中に生きて下さる。福音が、私たちの中にある。私たちの人生の物語が、主イエスの福音の物語に接ぎ木され、福音の物語になったのだ。主イエスが生きて下さり、私たちの人生が福音になった。
「イエス・キリストの福音はこうして始まった」
私たちの中に、新しい物語が始まっている…。私たちは、新しい物語の中に生きて居る。主イエスの物語。愛によって、いのちを献げる物語…。罪の暗闇に赦しと希望の光を灯し、死の力を復活のいのちで打ち砕く物語。私たちは、新しい福音の物語、主イエスのいのちの中で生きて居る。
毎年繰り返す主イエスの物語、待降節、降誕節…。私たちは、主イエスの物語を生きていることを想い起こす。私たちは、繰り返し福音の物語を聞き、私たちの物語を書き直す…。「イエス・キリストの福音はこうして始まった」私たちは、今日も新しい福音の物語、主イエスの物語を生きて居るのだ…。
Comments