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執筆者の写真じょ〜じ

イエスの風 No,81


「わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ15:9)

 今の生活、先が見通せる訳でなく、とにかく今しか見えない生活。

時々、不安になることがある。先を見過ぎると…。

 でも、今の生活、嫌じゃない。一緒に居る仲間が居るから。自分を見捨てないでいてくれる人たちがいる。

分かることがある。そういう人たちの愛に支えられて、僕は今日を生きて居るということ。

 この愛がなくなったら生きて行けないのだろうな…。とても壊れやすく、脆いことかも知れない。でも、この脆さ、壊れやすさ、弱さは必要なものだと思う。

 それがなきゃ生きて行けない…という弱さは必要なものだと思う。

「人はひとりで居るのはよくない…。」不安を抱えながら今日を生きる。脆さを抱えて。自分の内側にあるものでなく、自分の周りの人たちに溢れている賜物によって。愛に支えられて、今日を生きる。

 信仰、希望、愛、その中で一番偉大なもの、愛。

 今日僕は、人の中に注がれた愛を見て、その根源に向かって祈る。

今日も支え、生かして下さい。この愛の内に、そして、この愛によって…。



ヨハネ福音書10章7~11節・エゼキエル34章11-16、31節「わたしは羊のためにいのちを捨てる」 


「わたしは良い牧者。良い牧者は、羊のためにいのちを捨てる」

 大切なことは、何度も繰り返して言う。どうしても伝えたいことは、一度言うだけでは終わらない…。主イエスは、何度も、何度も言われた。「わたしは、羊たちのためにいのちを捨てる」ご自分が本物の牧者、主の民、イスラエルの牧者だと言われた。「わたしが本物。あなたがたの牧者。わたしは羊のためにいのちを捨てる」と何度も言われた。

 主イエスは、言わなければならなかった。偽物がたくさんあったからだ。偽物に騙され、傷つけられ、いのちの喜びを盗られそうになっている仲間が居た…。今、目の前に、偽物に傷つけられ、コミュニティから追い出された人が居た。主イエスは、生まれつき目の見えなかった人を癒した。けれど、コミュニティの指導者たちは、主イエスを嫌い、癒された人を非難し、追い出してしまった…。(ヨハネ9章)苦しみを抱えた者、病む者、貧しい者、弱い者が支えられ、慰められ、生きることが出来るように助けるはずのコミュニティであり、指導者たちが、どう言う訳か、そのような人を排除してしまった…。「盗人、強盗は、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりする…」主イエスは、激しくコミュニティと指導者を責めた。「あなたがたは偽物だ」帰る場所を失った友のために訴えた…。

 私たちの周りは、偽物で溢れている。私たちの為と言って近づき、その実、私たちを苦しめ、傷つけ、持っている善いものを、喜びを奪い取って行く…。私たちから、神と共に生きる喜び。永遠のいのち、信仰、希望、愛に生きる喜びを盗んで行く…。

 主イエスは、心穏やかではない…。信仰、希望、愛を失ったコミュニティ。弱い者、病む者、苦しむ者が蔑ろにされる現実。本来そのような人々を慰め、励まし、癒すはずの牧者…、ユダヤ人の指導者たちが、人々を苦しめていた。(エゼキエル34:4等)今、目の前に、見捨てられた仲間がいる…。主イエスは、憤り、悲しみを感じ、必死に訴えた。「わたしは良い牧者。わたしは、羊たちのためにいのちを捨てる」ご自分が、彼らの牧者になろうと決意された。いのちを捨てる覚悟をして、自らが本物の牧者であると名乗り出た。

 「わたしは良い牧者。わたしは、羊たちのためにいのちを捨てる」

 主イエスは、誰に向かって言われたのか…。もちろん、人々から除け者にされ、コミュニティを追い出された友に向かって。けれど、主イエスの言葉を聞こうとしない人々、彼に敵対し、殺そうと企む人たちに向かっても言われた。「わたしは良い牧者。わたしは、羊たちのためにいのちを捨てる。〜わたしが、あなたがたの牧者になる。わたしは、あなたがたのためにいのちを捨てる」その時、主イエスは、十字架に向かって歩き出しておられた。主イエスが死んでよみがえられた時、弟子たちは、想い起こし。その言葉が本物だと知った。そして、この言葉をどうしても伝えたいと思った。

 「わたしは良い牧者。わたしは、羊たちのためにいのちを捨てる」

 今日、この言葉が響いている。主イエスが、あなたに言う。「わたしは、あなたの牧者になる。わたしは、あなたの牧者。あなたのためにいのちを捨てる。」主イエスが、あなたを知っている。あなたを見つけ出し、あなたのためにいのちを捨てて下さった。何度でも、いのちを捨てて下さる…。このような方が、他に居るだろうか…。

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