新しい作品を描き始めています。昨年は、あまり思うように描けませんでした。描きたい、描かなければ…と思いばかりが空回りしていました。どういうわけか、まだ年が明けて2ヶ月足らずですが、すでに昨年よりも沢山の作品が生まれました。学校が春休みで時間に余裕が生まれたからでしょうか。作品の依頼があり、いくつか仕上げることが呼び水になって、勢いづいたからでしょうか…。分かりません。けれど、つくづく思います。作品は、授かり物、賜物だと。もがいて、懸命に向かおうとすること。色んな努力を重ねること。もちろん大切です。けれど、作品は、その懸命さ、努力を超えた所から、ふっと湧いて来る、降ってくるのです。私は、これが作品を生み出す時の苦しさであり、面白さなのでは…などと思います。もちろん、重ねて言いますが、もがいて、懸命に向き合い、努力を重ね、尽くすことがあって行き着くことなのです…。でも、冬の寒さを堪えながら、いつの間にか春を迎えている、何だか分からないけど春になって暖かいね…と言って、すっかり冬の寒さを忘れてしまうような感じなのです。
日差しは春の光を見せるようになって来て、木々、草花は、春を迎えるために密かに芽吹き始めています。私たちの日々にも、そのような密かな芽吹きがあると信じます。全てには定まった時があるようです。慰めの神が、あなたを支えて下さいます。キリストの平和が、心の隅々にまで行きわたりますように。主は、私たちのことを決して見捨てません。安心して行きましょう。
マタイ福音書5章4節「受けなさい、慰めを…」
どうして悲しいことが起こるのでしょう…。悲しいことを経験すると、「私だけがどうして…」そんな気持ちになります。「何か悪いことをしたのだろうか、自分には問題があるんだろうか…」などと、悲しんでいる自分が惨めに思えて来ます。悲しい出来事には、意味があるのでしょうか。
「悲しむ者は幸いです。その人は慰められる…」悲しむ私たちに、イエス様が言われます。不思議な言葉です。あなたは、この言葉を聞いて、どんなことを感じますか…。私は、この言葉に何だか慰めを感じました。ホッとしたのです。悲しいことがどうして起こるのか…、その理由は色々です。でも、その理由はともかく、「悲しみは、あっちゃいけないことではない」と言われているように感じました。「悲しんでいるあなたは惨めじゃない…」と言われているように思いました。
悲しんでいる自分のことを見捨てないで、馬鹿にしないで、評価しないで、黙って一緒に居てくれる人。あなたに、そういう人、居ますか。あなたにとって慰めになる人。実際にそばに居なくても、想い出すだけでも慰めになる…。
「悲しむ者は幸いです。その人は慰められる…」悲しい時に、大切なことは、悲しくないと振る舞うことじゃない。無理に楽しくすることではない。自分は惨めだと虐めることじゃない。悲しいことを、悲しいと言える場所を見つけること。悲しい気持ちを聞いてもらう、受け止めてもらうこと…。
「慰められる…」って大切です。「慰められる」私だけが悲しいのではないことを知る。私が悲しいと、「悲しい」と言ってくれる人、私のために泣いてくれる人、傍に居続けてくれる人が居ること…。「慰めを受け取りなさい」イエス様は言われます。「悲しい時に、無理に笑わなくてもいい。元気に振る舞う必要は無い。心配をかけないように、と頑張るのをやめて…。わたしが共に居る。悲しむ者は幸いです。その人は慰められる」
悲しみを知る人は、慰められた時に、優しくなれる。悲しむ人は、誰かの傍に居ることが出来るようになる。慰める人になるんです。
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