いよいよ聖週間に入りました。主イエスと共に、主イエスが歩まれた受難の道を味わいつつ過ごします。しかし、それは、単なる苦しみの道ではなく、愛、慈しみの道。敗北ではなく、勝利への道。しかし、争い、打ち負かす道ではなく、友のためにいのちを捧げる道。私たちにとって、到底理解し難く、受け止め難く、戸惑いに満ちた道。けれど、それは父に至る道。主イエスは、深い愛と憐れみの中、私たちを招き、また私たちと共に、この聖なる道を歩いて下さるのです。今日も、私たちは、主イエスの歩まれた道の足跡に、自らの足を重ね歩いているのです。知らず、知らずの内に…。あなたの友である主イエスが、あなたと共におられます。あなたの悲しみや苦しみの中で…。
ルカ福音書19章28~40節・ゼカリヤ9章9~17節「平和の王の行進」
「祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に。天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように」(38)
主イエスがロバの子に乗ってエルサレムに向かって進んで行かれた時、いよいよ近づいて行かれた時、一緒に歩いていた大勢の弟子たちが歓喜に沸き立ち、大声で賛美した。「私たちの王が帰って来られた。私たちを救い、解放するために」
王の帰還…、主イエスは、神の都エルサレムに王として帰還された。しかし、それは厳しい帰還だった。主イエスは、人々がご自分を受け入れないことを知り(19:14、27、39、41~47参照)、覚悟して、エルサレムの城門をくぐられた。主イエスは、歓喜する弟子たちの中で、心に厳しい決意、悲しみにも似た思いを秘めて。失われた者を捜して救うため、十字架につけられるために…。主イエスは、ロバの子に乗って、エルサレムに進んで行かれた。
ロバの子…、主イエスは、ロバの子に乗られた。それは、たまたまではない。主イエスは、ロバの子に乗ることを決めておられた。それはゼカリヤの預言の言葉がモチーフになっている。主イエスは、ご自分とゼカリヤの言葉を重ねておられた。そこに描かれている王になられた。それは、平和の王…「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ロバに乗って。雌ロバの子である、ロバに乗って。わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も絶たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る」(ゼカリヤ9:9、10)主イエスは、戦いの王ではなく、平和の王になって、エルサレムに向かわれた。
平和の王…、その平和とは何か、それは、戦って、相手を打ち負かし実現する平和とは違う。主イエスの平和は、負けて勝つこと…。負けて勝つ…。ロバの子に乗られた平和の王は、武器を振りかざすことなく、相手を傷つけることなく、愛によって平和を勝ち取られた…。それは、誰ひとり想像することが出来なかった。私たちには到底理解出来ず、信じられないこと。負けて勝つ、戦わずして…、傷つけず、打ち負かさずに…。これこそ平和…。この世界が必要として、求めていること。私たちの平和の王は、平和の勝利宣言をするために、ロバの子の背に乗って、神の都の城門をくぐられた。そして、人々に捨てられ、捕らえられ、暴力に引き渡され、罵られ、嘲られ、十字架につけられ、いのちを落とされた…。しかし、十字架は、敗北ではなく、罪と死に対する勝利の宣言。主イエスは、ご自分の死をもって、私たちの敵、罪と死、悪の力を滅ぼしてしまわれた。平和の王は、エルサレムで十字架と復活をもって、平和の勝利宣言をして下さった。そして今、平和の王の行進が、エルサレムから始まって、世界中に広がり、進もうとしている。主イエスは、ロバの子の背に乗って、この行進を続け、平和の勝利宣言の歌声と共に進んで行かれる。「祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に。天には平和があるように、栄光がいと高き所にあるように」この歌声を止めようとして、群衆の中から権力者たちが声を上げる。「先生、あなたの弟子たちを叱ってください」(39)しかし、主イエスは、宣言して言われる。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶ」(40)この賛美の行進を止めることは出来ない…。
今、世界は、平和の王の行進が目指す所とは、真逆の方向に向かって進んでいる。ロバの子の背に乗って進む王には目もくれず。それを黙らせるかのように、その遅々とする行進を追い越し、この世界を何度でも滅ぼすことの出来る武器を振り回し、猛スピードで進んで行こうとする。
しかし、平和の王は、今日も行進を続けておられる。罪と死を滅ぼし、平和の勝利を宣言しながら。「この人たちが黙れば、石が叫ぶ」誰も、主イエスの平和の勝利宣言を止めることは出来ない。主イエスがもたらす平和の賛美を止めることは出来ない。私たちは、ロバの子に乗って進み行く、主イエスを取り囲みながら、愛と平和を歌い、主イエスの愛に倣い、平和の勝利宣言をしながら、平和を見失った世界に小さな平和の種を播きながら歩いて行くのだ。
主よ、わたしを平和の器とならせてください。
憎しみがあるところに愛を、
争いがあるところに赦しを、
分裂があるところに一致を、
疑いのあるところに信仰を、
誤りがあるところに真理を、
絶望があるところに希望を、
闇あるところに光を、 悲しみあるところに喜びを。
ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
理解されるよりも理解する者に、 愛されるよりも愛する者に。
それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
許すことによって赦され、
自分のからだをささげて死ぬことによって
とこしえの命を得ることができるからです。
Comments