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執筆者の写真じょ〜じ

イエスの風 No,88

 最近出会った言葉に「ネガティブ・ケイパビリティ」と言うのがある。「容易に答えの出ない事態に耐えうる能力」と言うことらしい。悩める現代人には、互いに対する「共感」が必要。共感力を養い、成熟させるためには、性急に答えを見つけ出し、解決を急ごうとするよりは、簡単に解決しない事態に耐え忍ぶ力、瞬発力よりは持久力、魂の体幹力を養う必要がある。私たちが、互いに寄り添い、共に生きるために、とても大切なことのように感じた。聖書の物語は、「ネガティブ・ケイパビリティ」に満ちているように思った。今も救いを待ち望む私たちが、クリスマスの約束の希望によって支えられますように。主がこう言われる。「あなたは、わたしの愛する子。わたしは、あなたを喜ぶ。わたしは決してあなたを離れず、見捨てない。わたしが共に居る。安心して行きなさい」

マタイ福音書1章18~25節、イザヤ書7章10~14節「インマヌエル~神が私たちと共に」 

 「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」(21)

 天使が夢に現れて、ヨセフに告げた。聖霊によって身ごもった婚約者のマリアを妻として迎え、生まれて来る子を自分の子として受け入れるように。

人生には受け入れ難いことが時々起こる。悩んで、夢にまで見る…ようなことがある。どうして私の人生にこんなことが起こるのか。このことが無ければ、自分はもっと違う景色の中を生きることが出来たのではないか…そう思う。

 聖書に記されている物語と私たちの人生の物語を重ねることが許されるのだろうか、そう思う。ヨセフ、マリア、神に選ばれた人たち。神の救いの計画の中に用いられた。高尚な出来事の中での悩み…。それに比べて、私の悩みは、罪にまみれ、自業自得と言われても仕方ないことに思える。行く先にスッキリとした解決が全く見えない、どうなるか分からない暗闇をさ迷っているように思う。

けれど今日は、すがるような思いで、神の憐れみ深い心に拠り頼みつつ、ヨセフの物語と自分の物語を重ねて観る。これを私の物語として聴く…。神は、時に私たちに悩みをお授けになる。もちろん、それが自分の犯した罪の過ちから生じることだったり、この世界の抱える罪、全人類の中に染み込んでしまっている罪深さ故に起こっていることだったりすることもある。その責任は、限りなく私たち人間にある。にも関わらず、それら全ての、ありとあらゆる苦しみや悩みが、神の許しの中で起こっている…。神の支配、心、その御業、全ては計り知ることが出来ない程に深淵で、神秘としか言いようがない。神は今日も、計り知れない心で、私たちの人生を導き、私たちの唯一無二の物語を綴られる。

 ヨセフは、夢の中で天使の告げる声を聴いた。現状を受け入れ、マリアを妻とし、生まれて来る子を自分の子とするように導かれた。この福音書を記したマタイは、これらの出来事をこう呼んだ。「インマヌエル~神が私たちとともにおられる」ヨセフを悩ませた出来事、マリアの懐胎、結婚、出産、そして認知…これらの出来事の名、「インマヌエル~神が私たちとともにおられる」これらの出来事は、「インマヌエル」の証し。主は今日、私たちに証しして居られる。「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」

 人生の試練、苦しみ、悩みの中、私たちは言う。「神は一体何処に居られるのか。主は、私たちを見捨ててしまわれた…」けれど、主イエスは、私たちに言う。「恐れるな。わたしが共に居る。今、ここに。ここにこそ、わたしが居る」

 「このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった」主イエスは、「インマヌエル」と呼ばれるために、この世界に来られた。人として生まれ、この地上に住み、十字架にかかり、よみがえられた。あなたのどん底の暗闇に降り、住むために、マリアの胎に宿り、お生まれになった。ヨセフの子となり、33年の生涯をユダヤの片隅で生きた…。私たちは今日、「インマヌエル~神が私たちとともにおられる」と言うことが出来る。主イエスが、今あなたと共に居る。それが今ここに成就した救い。

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