すっかり秋めいて参りました。夏のツアーが終わり、ホームに戻り、日常が戻って来ました。ツアーに出ている間に、色んな事が起こりました。台風、地震…、今も様々な困難を抱えている方たちのことを思う時に、天を仰ぎ祈らされます。主よ、どうかあなたの慰めと励ましを…。どうか、私たちを試みに会わせず、悪からお救い下さい…と。私たちの日々は、色んな心配事がありますが、天を仰ぎ、互いに手を差し伸べ、歩み続けることが出来ますように。どうか、どうか、希望の灯を失うことがありませんように。
主の平安があなたを包み、守られますように。主がこう言われます。「あなたは、わたしの愛する子。わたしは、あなたを喜ぶ。わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。安心して行きなさい。」
マルコの福音書8章27~35節「あなたはキリスト」
ひとりの人と出会い、友となり、親しく互いを知り合って行くには時間がかかる。それは、それは長い時間が…、そして、いつまで経ってもその人の全てを知ってしまったと言う日は来ない。むしろ、謎が深まって行くようなことすらある…。
友情が深まって行く中で、何度もつまずきを通って行く。相手を疑ったり、受け入れることが出来ずに苦しんだり、悩み、一時距離をおいてみたり…。私たちは、身近な、親しい者、共に歩む愛する者にこそつまずくと言うことがある。
イエス様のことを知れば、知るほどに、イエス様を親しく、あるがままに見ようとすると、段々分からなくなって来る…。ある時、イエス様について福音書をよみながら、その姿を黙想した時、はっとさせられたことがある。もし、イエス様が、今自分の目の前で、福音書の中で語られ、行われた事をなさったら…。福音書に記されている事が、目の前で起こったら、自分はつまずいてしまうのではないだろうか。自分は、それでもこの方に従いたいと思うのだろうか…。
イエス様が語られたこと、イエス様がなさること、それはしばしば常識外れで、周りの人を驚かせ、戸惑わせた…。もちろん、素晴らしいこと、奇跡を行い、人を癒し、嘆き苦しむ人を助け、救ったけれど…。沢山の人がついて行ったけれど、つまずいて去って行った人も沢山いた…。イエス様のことば理解出来ず、受け入れられた人が沢山いた。
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(29)
イエス様が、彼について来た弟子たちにたずねた。ずっとそばに居て、一緒に旅をして来た弟子たちに聞いた。彼らの周りでは、イエス様について色々なことが言われていた。そのような中で、イエス様は、ずっと一緒に居る人たちにお尋ねになった。どうしてお尋ねになったのだろう…。
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
イエス様は、ご自分のことを知って欲しかった。弟子たちには、全てを知らせ、受け止めてもらうことを望まれた。そして、彼らが自分の後に従って来ることを願われた。今、目の前に居る人たちは、これからずっと歩みを共にするだろう人たち、そのことを期待する人たちだった。だから、あえてイエス様は尋ねた。「わたしをだれだと言うのか」
今、イエス様は、ご自身の歩みに大きな転換期を迎えていた。イエス様に、大きな出来事が迫っていた。イエス様は、エルサレムに向かって歩き出された。
「それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。イエスはこのことをはっきりと話された。」(31、32)
「多くの苦しみを受け、捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならない。」イエス様は、キリスト、救い主として、苦しみを受け、捨てられ、殺され、3日後によみがえると言われた。ご自分が何者であるかを包み隠さず明らかにされた。
「わたしはキリスト、救い主。わたしの後に従って来なさい。」
救い主が苦しみを受け、捨てられ、殺され、3日後によみがえる…。苦しみを受け、捨てられ、殺される…、そんな救い主があるだろうか…。そして、そのような歩みの後に従えと言う救い主…。それが救い主なのか、そんな救い主信じられるのか…。救い主は、苦しみから救い出してくれる、死から逃れさせてくれるのではないか。苦しまないようにしてくれるのが救い主なのでは…。
私たちは戸惑う、このイエス様の言葉には耳を塞ごうとする。まともには聞いていられない、ついて行けない…。「今の苦しみの中に留まれと言うのですか。私が苦しむのを、ただ黙って見ておられるのですか…」私たちは今、十分に苦しみの中を通っている。この世界には、私たちの知っている所、知らない所で苦悩が続き、途絶えることがない…。その中を歩み続けるなんて…。私たちはイエス様の言葉につまずく。「そんなこと言わないで下さい…」
私たちは、イエス様と喧嘩することがある。あからさまにではないけれど、心が離れてしまう、静かに抵抗したり、無視したり…。「イエス様、どうして今、こうなんでしょうか。あなたを信じているのに、こんなことが…。この苦しみが無くならないのでしょうか…」魂の深い所で、そう言う言葉が沸々としている…。
でも、イエス様は、私たちに向かって言われる。
「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い。わたしと福音のためにいのちお失う者は、それを救うのです。」(34、35)
「わたしについて来なさい。もし苦しいことがあるなら、そのままで、疑いがあるなら、そのままで、わたしに従いなさい。
わたしがあなたのキリスト、救い主。わたしは、あなたのために苦しみ、捨てられ、殺された…。けれど、3日後によみがえった。わたしは、生きている。
自分で自分を救おうとするのをやめなさい。わたしがあなたを救う。たとえあなたが苦しみ、捨てられ、殺されることがあっても、わたしは、あなたをよみがえらせる。わたしは、立ち上がらせ、生かす。」
「わたしに従いなさい」と招かれる方は、苦しみ、捨てられ、殺された…。けれど、3日目によみがえられた方。今も生きておられる。
イエス様は、キリスト、救い主。イエス様に招かれた人たちは、何度もつまずき、倒れた…。けれど、イエス様は、彼らを見捨てることなく、共に歩み、新しいいのちを与え、立ち上がらせ、従う者にして下さった。ご自身がよみがえられたように、復活のいのちを約束して下さった。
私たちの中には、イエス様がおられる。イエス様の復活のいのちがある。だから今日、主イエス様は、私たちに言われる。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」
「あなたには、わたしのいのちがある。わたしに従って来なさい。」
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