東方教会の暦では、今日が復活祭にあたるそうです。イエス様は、よみがえられて40日間弟子たちと共にお過ごしになりました。それで、復活日から40日間は、復活祭としてお祝いを続けるのだそうです。これは良い習慣ですね。お祝いを一日に集中して、それで終わって普段通りに戻ってしまうのも何だか味気ないように思いますから…。レント(受難節)で、御苦しみを40日間覚えて、やっとのことで迎えた復活祭です。苦しみを40日間続けるなら、喜んでお祝いする事も続けてもいいですよね。
主の御復活を心からお祝い申し上げます。
キリストのいのちが、あなたがたのうちに満ち溢れますように。主がこう言われます。「あなたは、わたしの愛する子。わたしは、あなたを喜ぶ。わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。安心して行きなさい。」今日も復活の主イエス・キリストがあなたの内に生きておられます。あなたは、祝福された人です。
ヨハネの福音20章19~31節「見ずに信じる者は幸い…」
「簡単なことです。信じるだけでいいのです…。」以前、そんな風に信仰を持つことをお勧めしたことがあります。けれど、こう言われてしまいました。「そんな簡単に言わないで下さい。信じるって難しいです…。」牧師として、信仰を持つことをお勧めする者として、出来るだけ負担のないようにと言うか、ハードルを低くしようと考え、そうやって出来るだけ沢山の人に信仰を持ってもらおうと思う余り、「信じることは簡単だ…」と言ってしまいます。キリスト教の良い所として、「信じるだけで良い」と言うことを強調したりします。そうやってお手軽感を出そうとする…。けれど、信じることほど難しいことはない…。私たちにとって信じることは、簡単なことではなく、むしろ何よりも難しいことではないかと、最近は思うのです。
イエス様は、よみがえられました。十字架にかけられて死なれ、墓に葬られましたが、三日後に復活なさった。よみがえって、今も生きておられる。復活とは、イエス様が今も生きておられ、ここに居て下さると言うことです。そして、そればかりでなく、そのよみがえられたイエス様が、私たちと関わりを持たれる。ただボンヤリと存在していると言うのではない…。生きて、何かをされる。出来事を起こされると言うのです。キリスト者である者は、私たちは、それを信じている…。そんなことを信じているのです。私たちを見て、「えーっ。そんなこと信じてるの…」と怪しまれたり、奇異な目で見られたりするのではないかと思います…。復活ほど理解するのが難しいことはない…、説明がつかない出来事だからです。有り得ない話しなのです。
「平安があなたがたにあるように」イエス様は、復活されたその日、夕方になって弟子たちが集まる中にお立ちになりました。ユダヤ人を恐れ、戸を閉め隠れていた弟子たちの前に現れた…。手とわき腹にある傷、十字架につけられた時の傷をお見せになった。弟子たちは、確かにイエス様だと大喜びしたのです。そして、イエス様は、喜ぶ弟子たちに向かって、ふぅっと息を、聖霊の息吹を吹き込んで、彼らに新しいいのち生きる者、罪を赦す、人に赦しを与え、神様の御許に導く者になさったのです(21~23)。弟子たちは、驚きましたが、大喜びでした。イエス様とお会いした、イエス様が彼らに声をかけ、聖霊の息を吹き込んで、新しいいのちに生かして下さったのです…。復活されたイエス様は、私たちに新しいいのちを吹き込んで下さいます。聖霊の息吹を、ふぅっと吹き込んで下さり、私たちの内には新しいいのちが始まっているのです。あなたの中には、イエス様のいのちの息吹、聖霊が吹き込まれている。あなたは、イエス様の御名によるいのち(31)が息づいているのです。
弟子たちは、復活したイエス様にお会いしたことで元気づいた。喜んだ。彼らは気付いていたのかどうか分かりませんが、イエス様のいのちの息吹が息を始めた。イエス様の御名によるいのちが鼓動し始めたのです。それで、そこに居合わせることが出来なかった仲間、トマスに話した。「私たちは主を見た」(25)けれど、トマスは信じることが出来ません…。「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」(25)と言った。無理もありません…。見ていないのですから…。この時以来、トマスは、疑い深い人の代表のように語り継がれるようになってしまいました。けれど、私は最近思うようになりました。トマスは、他の弟子たちと何ら変わらない。特別に疑い深い人間ではない…。彼は、ただ見ていなかったのです。他の弟子たちは、見たのです。「私も見なければ信じない…」これは当たり前の話なのです。そして、これは、トマスだけのことではなく、私たちのことでもあるのです。見なければ信じられないのです…、この手で触れる何かがなければ、体験しなければ信じられないのです…。トマスは、普通に、あるがままに言ったのです。「イエス様がよみがえって、お会いになった…と君たちは言う、どうして見てもいないのに信じられるのか。君たちのように、見たら信じられるけど…」彼は、信じたくなかったのではない。信じたかった…。けれど、「どうしたら信じられるのか…、この目で見て、この手で触れなければ信じられない…」彼は、素直にそう思ったのです。
それから一週間が経った…。再び、週の始めがおとずれた。再びイエス様が弟子たちの前に現れた。今度は、トマスも一緒に居た。「平安があなたがたにあるように」イエス様は、彼らの中に立って言われた。そして、トマスに向かって言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(27)トマスは、その声を聞いた時、こう言った。「私の主。私の神。」(28)トマスは、イエス様の手の傷に指を入れたのでしょうか。手をわき腹の傷跡に差し入れたのでしょうか。していないと思います。もうそんなことする必要はなかった…。イエス様のこの言葉で十分だった。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」イエス様は、彼が一週間前に口にしたことを聞いておられた…。イエス様は、あそこにおられた。今日、自分の目の前に立っておられるのと同じように、あの時も立っておられ、聞いておられた…。だから、彼は、「あなたがよみがえったと信じます」などと言わなかった。「私の主。私の神。」と言った…。イエス様はおっしゃった。「あなたはわたしを見たから信じたのか。見ずに信じる者は幸いだ。」(29)イエス様は、ずっとトマスと共に、トマスの前に立っておられた。目には見えませんでした。けれど、信じない、信じられない…と言っていたトマスと共におられた。トマスに語りかけておられた…、仲間の弟子たちを通して。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。〜あなたはわたしを見たから信じたのか。見ずに信じる者は幸いだ。」イエス様は、どうしてトマスにこんなことをおっしゃったのだろう…。イエス様は、何を伝えようとしておられたのか。それは、トマスや他の弟子たちのためにと言うよりは、後にその仲間に加えられて行く人々のためだった。見ずに信じる者たちのためにおっしゃった(ヨハネ17:20)。イエス様は、ご自身が見える必要があるとは思っておられなかった。むしろ、見えると言うことは、信じること、信仰の助けにならない…。イエス様は、ご自分を見えない存在、そう、まさに神様としてご自身を現そうとされた。神様は、この目で見ることは出来ない(ヨハネ1:18)。神様をこの目で見ることが出来ると言うことは、特別なことで、異例なこと…。イエス様は、ご自身を見える必要がないとお考えになっていたのではないだろうか…。けれど、トマスも弟子たちも見ることがなければどうしようも信じることが出来なかったので、ご自身を現して下さったのかも知れない。イエス様が弟子たちに本当にしたかったことは、ご自身を現すことではなく、彼らを信じる者にすることだった。彼らが信じる者になるようにと、ご自身を現された。イエス様が、彼らを信じる者になさったのです。
「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」イエス様は、今日、私たちを信じる者にしようとしておられる。もうすでに、私たちは信じている。これは不思議なこと。おそらく、誰も、かの弟子たちのようにイエス様は見た者は居ない…。トマスのようにイエス様にお会いしたのではない…。けれど、信じている。それは、イエス様の賜物。イエス様が、たとえ目には見えていなくても、私たちにお会いになり、信仰をお与えになった。トマスになさったことを、私たちにもして下さったのです。
信仰は、イエス様からの賜物です。イエス様が、私たちを信じさせて下さる。信仰は、目に見えないイエス様との出会いの経験そのものです。今日、主イエス様は、あなたに信仰を与えようと、ここにお立ちになって、こう言われる。「平安があなたがたにあるように。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」イエス様を信じている者は、こう言うことが出来るのです。「私は主を見た」イエス様を信じる信仰は、イエス様との出会いの賜物なのです。
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